2008年5月8日木曜日

無常に対する姿勢

25年も経てば崩れてくる。形あるものは崩れる。特にここ数年の崩れようは雪崩の如くだ。自分も年を取ったが妻の衰えようは支えて護る猶予もなかった。自然に逆らえないならとっくにこの世の存在ではないだろう。息を繋いでいることさえ奇跡であるのに日常のことなら大体こなすまでになった。本当に有難いと思わないといけない。薬のせいで頭も滅法薄くなったが人目を気にしなければ何て事はない。大病すると身体の全てに負担が掛かり弱くなる。骨と皮だけと言うと少し大袈裟だが筋肉も脂肪も削げ落ち昔の元気だった頃の面影は無い。たまに出かける時など納得できないのか化粧に相当の時間を費やす。今の年寄りは若くて元気だ。60や70になっても50代そこそこにしか見えない者も多い。そういうのと比較して落ち込むらしい。90に届こうという親の方が子の当人より若々しいのだから仕方が無い。霊界に於いては自分の最も光り輝いていた頃の姿格好になると言う。確かに祝福を受けて25年経つが、最初に顔を合わせた時の表情が自分の内面に焼け付いて、未だにその印象を相手に視ている。そういうことなんだろう。相手が自分をどう視ているかはわからないが、二倍にも増えた体重で昔の好青年だった頃とは明らかに違うのに、唯のひとつの提言も無い。おそらく相手も同じなのだろう。いやそうではなく自分の思い込みでただの無関心なだけかも知れない。人間は意識圏と無意識圏を行ったり来たりしている。簡単にいうと意識圏は起きた状態であり無意識圏は寝た状態だ。この地上に生を受け意識圏に埋もれるとは移り変わり行く世界に魂を置くということ。仏教で言うところの無常がそれだ。無意識圏は五感では意識できないがより高次の感性で感じ働きかけることが出来る。無意識圏という言い方に問題があるが要するに自分が実感として得た変わらないものの中に魂を置くということだ。それを踏まえて自分の人生にどういう姿勢で自分の何を使って臨んで行けばいいか。次のポストで逍遥してみたい。

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