2008年5月12日月曜日

自我

人類の芽がこの地上に吹き始めた頃、現在の自我の在り方とは様相を変えていた。勿論地球の在り方も現在のそれとは著しく異なる在り方をしており、霊も肉も混ざり合った状態(決して正しい表現ではないが)と言えば幾分イメージできるかもしれない。まだ地球とも言えないその場は霊界でもなく物質界でもない。光が宇宙に溢れるのもずっと後の事だ。そのような混沌状態から創造の御業は始まった。天地創造の時間軸を時間という概念がもたらされてから辿って行くと人類の霊的な在り方、そして肉的な在り方が今の状態になるのは極めて最近の事であるということが理解できる。人類においても他とは区別された自分という存在を認識できる自我の確立をもたらされたのも極めて最近のことである。勿論数十年数百年という単位ではない。少なくとも数千年数万年単位での話である。自分が百年生きれるかどうかと言うのにそんな時間単位での話は無意味であると大概の人は思う。その思い込みの背後には自分は百年そこらしか生きないのであり後は関知せず、肉体を持って生きることだけを生きると認識している唯物思考からその観念は生ずる。しかし唯物的尺度での時間感覚を信じようが信じまいが自我は生き続ける。在り続けると言った方がいいかもしれない。自我にとって時間は関係ない。あらゆる時空を今でありこの場として認識できる。自我は時間空間、そして霊界法則をも越えたところに存在している。地上で生きるに肉の服を着、霊界で生きるに霊の服を着る。肉の服を脱ぎ、霊の服を脱げば自我の中に没頭する。他とは区別された自分があるとの認識は人類の皆が持っているし、それ故に自己中心的ともなりえるわけだが、自我の在り方として完成された訳ではない。区別された立場でこそ自分を認識して自分を護ろうともするが区別された立場でこそ与えるという概念が生じる。必死で自分だけを護ろうとする意識から相手をも護りたい与えたいという意識が立つことで明らかに自我の在り方として高次的位置に立つ。理屈で為に生きるものにならないといけない、愛さないといけないという位置から自分の内面からほとばしる様に愛したい与えたいという想いに満たされていくようになる。瞑想して自我に没頭すれば自分という存在が時間を超え場を超え、即ち肉体を超えた存在であることを認識する。悠久なる時を遡ってその時代時代に経験した事柄、次元をステップアップしてきた路程を感知できる。イメージとして捉えられるのではなく自我の在り様を感知できる。ノア以前の在り様を感知でき、虹で人類に約束され受け取った想いを感知でき、それぞれの文化期を感知でき、イエス様が地上に居られた頃を感知でき、十字架に付けた人類を感知でき、それによって光を人類にもたらした様相を感知でき、そして今の在り様を感知している。それは尤も実体的感覚だ。それぞれの時代を生きたと言い切れる自我が在る。堕落して神様を悲しませたのは自分であると認識でき、イエス様を十字架に付けたのは自分であると認識できる。自分のことであるからこそ罪も自覚し、懺悔する必要性も自覚する。

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