2008年5月26日月曜日

二世祝福

二世祝福の会合に参加してきた。自分の子に対してどう対処して良いのやらわからず、他の家庭はどういう状況で、どう対処しているのか、子供達はどういう基準なのか、取り敢えず他の家庭と接することで何がしかの糸口が見つかるやも、という思いで参加してみた。子供に祝福を与えたいという思いは共通しているが、その思いの背後にあるものはそれぞれ様々である。御父母様に繋がった血統を後孫に繋いでいく、それが二世祝福であるという認識は正しいが、頂いた祝福の種、真の愛の種を育て血の在り様を堕落の在り様から本然の在り様に変えていくという意味をどう理解しているか、真の血統に繋がるという意味が真の愛を相続する、為に生きる存在となるという意味とリンクしているか、その理解度でそれぞれの家庭が願う二世祝福の背後にあるものは違ったものとなる。とにかく、いろんな祝福家庭に接するうちに自分の状況との比較に終始している時点でそれに関わる資格は自分にはない。この子の為に良かれという動機だけでエネルギーを投入し始めると、それは親の欲目という要素に結果は集約されてくるだろう。そこに真の愛、為に生きる想いとして花が咲くとは思えない。二世祝福において、うまくいったとかうまくいかなかったとかという判断なり言葉は全くそぐわない。そこに真の愛は介入しない。お父様は祝福を与える時、その子の為という想いはもちろんある。しかしそれだけではない。子々孫々の為という想いもあるし更に、国を想う気持ち、世界地球宇宙神様を想いその為にという想い、国を祝福し宇宙を祝福する想いがきっとあるはずだ。お父様の祝福の意味は本来そういった次元にあると思う。我々が単に結婚するだとか血統を残すだとかという意味合いを超えて、より高次のより公的な感覚が伴うべきだ。解り易く例えればこう言える。明らかに内的霊的な課題を持っていたり、外的な欠陥を抱えている相手でもそれが神様の願いであるならどうぞ受け入れさせて欲しいという内的至高を得たものが祝福を受けるに値する。それほどの愛に満たされた者であればどうどうと祝福を受けたといえるだろう。愛や想いが自分の子供に留まるのであれば祝福を受けたのではなく奪ったという言い方に近い。決して裁いている訳ではない。自分への認識であり自分のあるべき目標ともいえる。現実は他のどの家庭よりも低い基準でうろついている。もがいている。

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