2008年5月27日火曜日

職場

若い頃は年を重ね顔も身体も崩れそうな者達を見ながら、何と年を重ねることは惨めなむごたらしいことかという想いがあった。自分の周囲に年を重ねることのすばらしさを語るものはいなかった。しかしこの年になって見えてくるものがあるという事が解り、若い頃がどれ程不自由であったかが解り、自分の内なる世界、内なる宇宙が、年を重ねることによって大きく広がってくることがわかった。年を取れば肉体的には活動範囲は狭まるが、内的なる活動範囲の広がり方に比べれば些細なことである。そう言い切れる自分に過去の自分は驚いている。たまに同業仲間で集まったりするといろんな身体の不具合の話で盛り上がったりするが、話の取っ付きとして付き合うのは善しとしても、身体に良い情報をあれやこれやと片っ端から引き出すのはウンザリしてくる。もっと深い内的な、精神的な、霊的な内容を授受したい。職場に於いてどれだけ過去に見えなかったものが見え、思考が自由に組み立てられ、内外の特に内なる世界においての活動範囲が広まったか、を見る必要がある。ビジネス会議に於いても、いつまでたっても昔と変わらず数字を並べ立てながら、結果と外的方法論に終始していたりする。食事に例えるなら量だけにこだわり、その内容については触れようとしない事と同意である。そこに何の創造的神霊も関与できない。お父様が霊界についてあれほどに重要視され触れられながら、ビジネス活動の事柄全てから霊的なもの内的なものを排除して携わっている。唯物論者にならない限り、そこから何の力もエネルギーも湧いてこない。はっきり自分の意見を言うと、今やっている卸し業務なり職人業務に何の霊的なもの内的なものも必要としていない。ただ、システムと流れ作業に従事しているのみで全ては事足りる。霊界が本当に解るならばその場が自分にとって内的霊的成長には繋がらないことを理解するはずである。それは死を意味している。勿論携わる兄弟それぞれは家に帰れば内的霊的なものが必要であり成長もする。しかし職場が神霊に満たされ、従業員が感化され、内的霊的に成長できる場とはならない。携わる従業員がそれぞれの業務に内的霊的価値を見出した時、初めてその職場なりその店は息を吹き返す。活きた職場と店にこそ人も集まり物も金も集まる。そういった教育こそ必要であるのに外的な事柄に終始している。数字に主管された機械的労働だ。眠っていることに気が付いていない。本当の価値に気付いていない。

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