2008年5月23日金曜日

聖霊体験

神様が尋ねてくださったことが一度ある。勿論いつ如何なる時も神様は尋ねてくださるが、いろんなしがらみや思いが邪魔をして神様に会える次元には届かない。いつも神様の横を素通りしている。市内の高校に入学当時、最初は郊外にある親戚の家に居候しながら通っていた。叔母は朝晩の食事の世話もしてくれたし、叔父は市内の学校まで仕事のついでに送ってくれていた。もっと心を開いて巧く入り込んでいければいい関係を築けたのかもしれない。しかし自分は人との関わりが不器用だ。そのうちだんだんと自分の居場所が無くなっていった。どこで探したか知らないが四畳半四千円の安アパートを親が見つけてくれ、新しい生活が始まった。ビルに囲まれた薄暗い木造のボロ屋で、やくざな臭いのする、肩を怒らせたような人種が数人住んでいた。怒鳴り声や嬌声が薄い壁を通して届き、勉強どころではなかった。やっと気兼ねなく過ごせると思いきや、今度は寝るにもびくびくしなければならない状況になった。友達を通して教会に通い始めた頃で、あまりにも怖くて下宿を抜け出し教会から学校に通ったこともあった。神様が尋ねてきたその時はそんな不安定な頃だった。別に特別な光景に出会ったわけでもないし大きな事柄が自分に起こった訳でもない。教会には通っていたが、自分にとっての救いがここにあるという確信をまだその当時、持つには至らなかった。いつものように学校の帰り、教会に顔を出して夜半に下宿に帰る時だった。裸電球が灯る中で靴箱から自分の靴を取り出しながら、またあの薄暗い下宿に帰る気の重さに耐えかねていた。いつもなら誰かが声をかけてくれてその声が背中を押してくれていたが、その日は誰もその場にはいなかった。そのせいもあったのか非常な孤独感を覚えた。華やかなネオンの灯が辛うじてここまで届いている。瞬く残光が色褪せて悲しい。外に足を踏み出すと小雨がぱらついてきた。暗い空を恨めしく眺めた。同い年くらいの若い子達がはしゃいで通り過ぎる。彼らと自分が本当に同じ世界にいるのが不思議だった。自分は唯の形だけの抜け殻で、生きてることの実感も無かった。歩き出そうとした時、急に何かに捕らわれた。空虚な自分の中に急に暖かいものが入ってきて内面を一瞬で満たした。満たされたものが熱くなって込み上げてきた。その瞬間、訳のわからない涙が溢れ、頬を伝った。頬に自分の熱い涙と降り始めた冷たい雨を感じながら自分と神様が同じ心境にあり、自分のこの場で共に泣いているのがわかった。自分を慰めてくれているのではなく、一緒にその孤独感やらやり切れぬ思いやら切なさやら無力感やら、様々な思いを共有していた。何か悟らすでもなく、決意させるでもなく、ただただ一緒に泣いている。自分に現れた神様はそういう神様だった。帰路の小一時間、自分の感情と、そして別の感情をも味わっていた。下宿に帰ってもその感覚が抜けなかった。目がふやけるほど泣いた。私は今の今までその出会い以上の体験をしたことはない。その体験がそれからの信仰生活の動機でもあり、どう捉えるべきかの問いでもあった。自分なりの心情路程を重ねた今、これがひとつの聖霊体験とだけ言えないほど、自分の心の奥底で主張し関わってきた。大きな転換期や決意を要する時、その時の神様に違いない感情や想いが大きく自分を包み込む。

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