2008年5月13日火曜日

親として

悲しい寂しいいろんな寂寥感が魂を染めるが、それは受けるべきものとして受け入れよう。一生懸命愛を注いできたつもりが唯のつもりでしかなかったのか。小さい一人の親としての存在感も子供の中にはないのだろうか。しかし他の誰の責任でもない。子供に対して焦る思いで接しても今の状況を変えられるわけではない。表面的な素行をどれほど注意しても全ては逆効果だろう。子に接する度に自分とは何者かを先ずその目が問うている。自分が歩んできた道のりが自分の魂の在りようが本物かどうかが問われる。自分が勝ち取った世界、宇宙の中で子は育っていく。今子供が住んでいる世界が今まで子に接してきて自分があたえたもの。親が与えて生きている世界と自我の在りようが見えていく段階での模索との狭間で葛藤する。子供の姿を見て親としての自分の在りようを悟る。先ず現実そのままを受け入れる姿勢を持つ。現実以上でもないし現実以下でもない。自分の中にある祝福家庭としての祝福子女としての理想イメージを一旦横に置く以外自分の居場所は無い。それは自分の理想イメージであって相対者にも子供にもそれを共有できる段階に至っていない。どれほど心の中で子の名を連呼しようが情けない思い焦る思いに身を焦がそうが快い波動となって子に届くことは無い。すべてを受け入れること、そこからが先ず出発点だろう。観念の域、感情の域での解決策は無い。ただただ、この子の為に良かれと想う祈りと念、そして如何なる代償をも引き受ける意志で待つ以外ない。

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