2008年5月9日金曜日
読書に関して
本を読むことは著者との対話を意味する。いろんな人と接する機会を持てばその人の人生観なり世界観なりを垣間見ることが出来るように、いろんな本を読むことで著者の獲得した事柄を自分の内側に持ち込み、自分の中で対話させることができる。本から得る情報そのものに価値があるのではなく、情報を材料として思考することに価値がある。思考することで咀嚼し魂に消化吸収する。勿論どうでもよかったり或いは自分にとって悪影響を及ぼす本もあるわけで、分別する必要はある。人間が人間であることの意味は言葉を所有する事にある。人間と他の動物との相違は動物という群れの魂に比較し個の魂を所有しており、それが一人一人の自我から来るものであるということ。自我は本来第二の神として親なる神に似るべく愛の完成を追及している。愛を与える受けるという精神活動こそ人間の本質でありそれを高めていくためには言葉をして高められる。善き言葉に神霊が宿っている。言葉で反省し、言葉で悔い改め、言葉で祈り、言葉で思考する。言葉を用いず自我の働きは何もなし得ない。辞書に載る一つ一つの言葉を言うのでなく、じぶんの内面にある言葉を指す。受け取る印象を内面の言葉で観念として組み立てる。全ての本を最初から最後まで読む必要性はない。そういう縛りは責め苦以外何物でもない。訳の分からない相手に付き合う必要もないし、相手の話全てに付き合う必要もない。ビジネス書や実用書を読み漁るのもいいが、全てが受け売りで自分の中で組み立てられておらず、死んだ言葉の蓄積となってこれはこれで自分を悩ます。書き留めておきたい内容がその中にあるかどうかがその本が自分の思考対象となりうるかどうかの判断になる。普通、本でも記そうと思えば自分の深みに下って行く。だからただ単に相手と会話するよりは深い交わりを本を手に取ることでなし得る。み言葉に出会えたことで人類に隠されていた真の言葉を得、それは神様の概念を構築できる言葉であり、神様に出会える言葉であり、封印されていた歴史の秘密を解き明かす言葉である。み言葉で自我を再構築していく過程が信仰生活である。偽りの言葉で組み立てた建造物そのものが自分であるのでそれを取り壊すに七転八倒するがみ言葉で構築されたものが上回ってくると、ある程度の高みに立って見渡すことが出来る。侍る生活が信仰生活に取って代わる。
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