2008年5月14日水曜日

小さい頃から良く泣いていた。周りの者達と同じように振舞おうとしても内から溢れる感情を抑え切れずにいた。しかし限界点を超えてしまうと耐えるに耐え切れず噴火したように号泣した。突然の様子に周りの者は呆気に取られていた。外見は同じでも自分が他と違う内面の様相をしていることに小さい頃から気付いていた。一般的な言葉で言うと感受性が強すぎるということだ。男らしくないとか、いつもメソメソしているだとかそういう視線が鋭く内面に突き刺ささり、そこから言いようの無い孤独感がドクドクと流れ出る。しかし親だけはそういう目で見ることはなかった。ただ子供の様子そのままを受け入れ泣き止むのをひたすら待ってくれた。子供の私が感情の放出を終えると、飲み物や菓子を与えてくれて泣いたことに関しては何の一つも触れはしなかった。自分でもどうにも主管できない感情に振り回され、受け入れてくれる親がいなかったらどうなっていただろうかと思う。お父様が語られた言葉の中にその心情に少しでも触れられれば嗚咽を隠し切れないだろう、といったような内容を語られたことがある。勿論私の次元とお父様の次元とは遥かに違うけれど、その想いは自分なりに幾らか理解できる。自分は自分の感情に限ったことであるけれど、お父様は神様の感受性を供えておられる。ある青年が人生不可解を理由に身を投げた新聞記事をごらんになられて何日も泣かれたように、親なる神様の想いがお父様ご自身の想いである。一般人がその青年が可哀想だと思う感情を超えた感情を抱かれたはずだ。その青年の親以上の想いを抱かれたはずだ。そしてその想いを自分にも差し出して下さっている。私達にその認識はあるだろうか。お父様に侍るに、その位置に侍るのでもなく周辺を慮って侍るのでもなく、その尊い無償の愛に侍る。私の為に涙して下さる親の愛に侍る。み旨を歩むに於いてもいろんな取り決めがある。政治的な事柄も確かにある。要領よく泳ぐことも必要かもしれない。しかし真の愛で自分とお父様は貫かれていると言う実感を持ってお父様に侍ることを忘れ、その環境に埋もれているなら、それは親にとってどれほど悲しいことだろうか。お父様の姿を前にして目頭が熱くならないことは無い。目頭を押さえながら、お父様と自分が愛で貫かれているということを実感している。

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