2008年12月30日火曜日
太陽存在
久しぶりの晴天を仰ぎ見た。直視すれば眩しい太陽光も、夏の盛りの成長力溢れるそれとは明らかに異なり、安らぎを含んで届く。物質的なことのみに関心を向ければ、太陽の光と熱の恵みは植物の成長を促し、地上の全ての存在がそれを通して生命の恩恵を受ける。しかし人間存在としての価値が肉体に包まれた内的内容にあるように、太陽存在の価値も物質的な光や熱に包まれた太陽存在の内的霊的内容にあり、地上存在、特に人間存在は光や熱を纏ってやってくる太陽の霊的内容を受け取っている。太陽を輝く或いは燃えるガス体と認識することは、地上のみの情況にしか当てはまらない事柄を地上外の情況に転用した、即ち天宙という地上天上を踏まえた上での認識とは大きく異なる。太陽は明らかに霊的存在だ。内なる太陽であるところのひとりひとりの自我の起因となる太陽存在だ。太陽が生命体活動の基であるように、自我が魂の活動の基である。太陽の霊的存在と自我とは密接に関係している。地上の生の間のみ太陽は必要存在なのでなく、この肉体を脱いでも必要であるどころか太陽存在があるから自分は自分であるという自我意識を持てる。御父様が語られた内容、事故が起きた後に深く悟った内容は、太陽も真の父母の血族であるということ、という意味は霊的存在としての太陽存在との関係性に触れられたものであることは間違いない。その深いイメージ認識に至らないまでも、限りなく与え届けられる光を受けながら、太陽の霊的存在がもたらす受け取れないほどの溢れる愛を、意識して感受できる自分となる。無意識の内に届けられ受け取るものへの意識と関心が、生きる事の意味と生かされていることへの実感をもたらす。意識しなかったものを意識する時、やっと眠りを終えた人間として目覚め始める。
2008年12月29日月曜日
み言に対する姿勢
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。(ヨハネによる福音書1:1~5)
聖書は霊的書物であるから毒された人間思考(唯物的思考)を持って理解する事はできない。論理で理解しようとするそれ自体が聖書に対する態度ではない。他の福音書は同じ事柄を同じ方法で語っているが、それに比べヨハネの福音書は全く違う述べ方をしている。特に冒頭のこのくだりから始まる内容は論理に耐えられるもののみを受け取る現代人には理解を超える内容に違いない。言は神だと言われて、言に対して持つイメージや概念と、神に対して持つイメージや概念とを照合させようとする。先ずこの唯物的イメージや概念を捨て去らないと聖書の言葉を受け取ることはできない。極左主義などの危険思想と思っている唯物論は唯物論の最終段階に過ぎない。現代人の殆どは唯物的眼鏡をかけている。言葉には力がある。言葉は生きている(命がある)。言葉は神である。これらを理解するには物質を超えるもの、感覚を超えるものへのまなざしを取り戻す必要がある。高みにある存在に対する畏れ、畏怖を覚えることを学んだ者がそのまなざしを取り戻せる。御父様のみ言を受けて、神の理想に対する熱い想いを受け取らないのであれば、み言を受けいれたとは言えない。み言を受けて、御父様の理想に対する熱い想いが自分に伝わってこないなら、同じ言葉を受け取る共鳴圏にない。次元がずれている。御父様が感じておられる同じ熱を自分の中に少しでも実感できる自分であってこそ、本来の在り方に近いだろうし、自分の中にそれが見出せないなら、理想熱の欠如に対して、御父様の心情圏から疎外されている悲しみや悔しさを覚えるものになることが、悔い改めの衝動を発する。そこが信仰の原点だろう。高みにある存在(神様)に対する畏怖の念と御父母様に対する悔い改めの心情は、霊的内的に見るなら同義語とは言えないまでも似通った在り様だ。平安な日々に埋没することで、そういった感情を持たないとするなら御父母様と何の関係があるだろう。死の門を超えたとき、受けた祝福が恨みとなる。
聖書は霊的書物であるから毒された人間思考(唯物的思考)を持って理解する事はできない。論理で理解しようとするそれ自体が聖書に対する態度ではない。他の福音書は同じ事柄を同じ方法で語っているが、それに比べヨハネの福音書は全く違う述べ方をしている。特に冒頭のこのくだりから始まる内容は論理に耐えられるもののみを受け取る現代人には理解を超える内容に違いない。言は神だと言われて、言に対して持つイメージや概念と、神に対して持つイメージや概念とを照合させようとする。先ずこの唯物的イメージや概念を捨て去らないと聖書の言葉を受け取ることはできない。極左主義などの危険思想と思っている唯物論は唯物論の最終段階に過ぎない。現代人の殆どは唯物的眼鏡をかけている。言葉には力がある。言葉は生きている(命がある)。言葉は神である。これらを理解するには物質を超えるもの、感覚を超えるものへのまなざしを取り戻す必要がある。高みにある存在に対する畏れ、畏怖を覚えることを学んだ者がそのまなざしを取り戻せる。御父様のみ言を受けて、神の理想に対する熱い想いを受け取らないのであれば、み言を受けいれたとは言えない。み言を受けて、御父様の理想に対する熱い想いが自分に伝わってこないなら、同じ言葉を受け取る共鳴圏にない。次元がずれている。御父様が感じておられる同じ熱を自分の中に少しでも実感できる自分であってこそ、本来の在り方に近いだろうし、自分の中にそれが見出せないなら、理想熱の欠如に対して、御父様の心情圏から疎外されている悲しみや悔しさを覚えるものになることが、悔い改めの衝動を発する。そこが信仰の原点だろう。高みにある存在(神様)に対する畏怖の念と御父母様に対する悔い改めの心情は、霊的内的に見るなら同義語とは言えないまでも似通った在り様だ。平安な日々に埋没することで、そういった感情を持たないとするなら御父母様と何の関係があるだろう。死の門を超えたとき、受けた祝福が恨みとなる。
正月
アメリカにいるから特にそう思うのかも知れないが、年を送って新年を迎えるという感慨を持たなくなって久しい。かつてのような暮と正月の明らかな空気の違いは、日本にいたとしてもここ最近受け取ることは無いように思う。昔は正月でなければ口にできなかったものも、いまどきいつだって手に入る。夜型人間や社会の中で12時を過ぎて起きているのも普通である。昔の子供であれば、普通夜9時を過ぎて起きていれば注意されたし、もよおして夜半過ぎに目を覚まそうものなら、静まり返った暗闇にさまよう幽霊が、自分が目覚めて意識のあるのを感じ取るのではないかと、無理にでも寝入ろうとした。お化けに会わずに目を開けて0時を超えられるのは大晦日のみなのだ。暮には父と祖父は臼と杵を納屋から運び出して手入れをし、母は朝早くからかまどに仕掛けた幾段もの蒸篭でもち米を蒸す。子供達は蒸篭から立ち上る周りが霞むほどの蒸気の甘い匂いにつられて起こされる。つき上がったもちを米粉が敷かれたまな板代わりの戸板に伸ばされ、手早くちぎられた熱いもちを、手の平を赤く熱くしながら捏ねて形にした感触を覚えている。特に御節のような幾品もの立派な正月料理を用意していたわけではないが、千切りの大根と人参に鯖が刻まれたナマスと、和え物煮物が添えられ、それにもちが加われば、それだけでも日常の漬物だけの食事に比べれば充分目を見張るご馳走だった。11時を回ると除夜の鐘の音がゆっくりと一つ一つ届き、古時計の長針を何度も見上げながら、静まり返った中にも高揚感を益々強くしていく。そして0時を超えると父も母も祖父も、暗いトンネルを抜け出たように晴れ晴れとした様相で、新年の挨拶を交わす。一年間の重荷を一瞬で取り払われ、真新しい一年という真っ白な紙を頂いた空気感。新年に対する希望であるとか期待であるとかの感情もあるのだろうけど、それ以上に一年の罪煩悩を取り払われ、民族神霊の高みにみまうことが許される、日本民族の宗教儀式としての霊的感慨を正月に受け取ることができる。正月の慶びはそこにある宗教的なものだ。三が日は親戚を年始周りして馳走を頂き、夜遅くまでカルタを皆で興じたりする。それが楽しくて学校に上がる頃には既に百人一首は諳んじ覚えていた。昔は雪の積もり始める時期も早く、正月の夕暮れ、吹雪の中を父に背負われて家族皆で年始参りに行ったものだ。ひとやま超えてだんだんと親戚の家の明かりが近くなって来るのを、ワクワクしながら雪降る簾の先に見ていた。子供の目に映ったその幻想的情景を今でもはっきりと覚えている。
2008年12月27日土曜日
今日の想い 35
今日一日の経験の中で、内的霊的に学習した内容が自分の中に新たに築かれ、肉体が成長して筋力が増すように、霊人体の瑞々しさや力強さが備わっているだろうか。堕落人間であることの一つに他への関心の無さがある。関心が無いと言う事は、そこに自分との関連性を認めないという意味だ。わざわざ他人に関わって乱されるであろう感情を持つ事への怠惰がある。現代人は自然との関わりが希薄な文明を生きている。肉体の快適さを追求することは、自然からの影響や刺激を和らげ果ては無くすことになる。現代人に取っての自然は額縁に納まっている絵と何ら変わりは無い。本来、自然の中にこそ感情は溢れているが、窓を隔てていればそれを受け取ることは無い。様々な感情表現としての照りつける太陽であったり暖かな日差しであったり、或いは吹きすさぶ風雨であったり優しいそよ風であったり、自然の中に身を投じることで宇宙に溢れる感情をこの身に浸透できる。自然に身を曝すことで霊性溢れる瑞々しい色合い溢れる感情魂に育つ。自然という宇宙の懐に抱かれる事に遠ざかると、他を思いやる感情に欠如する。他への関心を開かない固く閉ざされた乾燥魂は、自分の事ですら無関心を装う。そこには何の色合いも無く、灰色の荒んだ世界がどこまでも続く。一日を終えて目を閉じ、今日の感情の流れを追いながら、自分の魂の様相を見れば、自然や人との触れ合いの中から受け取ったものを見出せる。益々関係を深める事で魂が活き活きと色合い深く彩られ、霊界の高みから旋律が醸し出されるのを受け取る。目の前にある人の喜ぶのを見ながらその人以上に喜び笑い、悲しみに触れるときその人が訝るほどに涙を流す。溢れる感情のままに笑うに忙しく泣くに忙しい。その場に魂の渇きを覚える人が集まらないことがあるだろうか。
2008年12月24日水曜日
今日の想い 34
地上界に於いて鉱物界植物界動物界人間界と位階が存在するように、霊界に於いても確実に位階が存在する。人間、堕落によって天使万物にも劣る存在に成り下がったが、天使であれ大天使であれ位置する霊的位階は、その場にあるべきことを約束されて、即ち自動的にその位階に立った存在である。それに対して人間は自由意志をもって位階を上り詰めていく事ができる存在なのだ。その意味で人間は責任分担を与えられた神様の子女として存在している。自由意志を所有する意味は、上り詰めていく事もできる反面、けだもの以下に転がり落ちる事もありうる。事実、自由意志をして精神の高みに向かう魂の在り様を捨て、安易な魅力に絆されて堕落してしまった。そして堕落様相からの復帰摂理の全ての路程に於いても、救いに至るかどうかは人間の自由意志に任されてきた。その結果が救世主を迎えるまでの気の遠くなるような路程であり、更に自由意志によって人類は救世主に対する不信を選ぶことで更なる二千年を待つ事になった。堕落した人間に取って神との直接的関係を持つ事はできない。神と一問一答できると言う者がいるなら、それは何か他の霊的存在で神ではない。神様と出会おうとするなら、神様までの位階を一段一段登りつめながら精神の高みを目指す必要がある。転がり落ちた堕落人間に取っては気の遠くなる話なのだ。しかし私達は今、奇跡を目の当たりにしている。どれほど精神修養をしても神に届く事は不可能な立場でありながら、神様を目の当たりにしている。しかも我々の次元に降りてくださり人間と同じように肉体を纏っておられる。同じ空間と同じ時間を過ごしている。我々は御父母様の中に神様を見ることができるのだ。神様の理想を、神様の痛みを、神様の心労を、神様の悲しみを、神様の喜びを、神様の愛を、神様の全てを見ることができる。御父母様を想うことが神様を想うことであり、御父母様に侍ることが神様に侍ることであり、御父母様の御前にこの身を供える事ができれば神様御自身に吸収され神様と混然一体となれる。生も死も、病みも老いも、貧も富も、それらは御父母様を想い侍り犠牲になることに何の支障も来たさない。もはや肉体にまつわる事柄は御父母様を前にしてどうでもいいほどに影を薄める。御父母様へ向かう事の感謝と喜びで全ては凌駕される。
復活現象
復活は人間が堕落によってもたらされた死、すなわちサタンの主管圏内に落ちた立場から、復帰摂理によって神の直接主管圏内に復帰されていく、その過程的な現象を意味するのである。したがって、罪を悔い改めて、昨日の自分より今日の自分が少しでも善に変わるとすれば、我々はそれだけ復活した事になる。(復活論、復活の意義より)
肉体を纏い、感覚世界に於いて鉱物界植物界動物界に身を置いているように、霊人体は天使存在と接触を持っている。意識するしないに関わらず、人間の霊的成長に取って天使存在は必然の存在だ。天使存在は、神界天使界の階級段階を下りながらもたらされる神様の願いの一片を受け取りながら、理想世界理想郷へのビジョンを人間にもたらす。要するにそれが天の使いという意味だ。人間の良心に受け取ったビジョンに合わせる形で理想世界は築かれていく。個人に於いては良心に受け取ったビジョンに合わせて、人格完成が為されていく。天使が神様のビジョンを人間にもたらすように、人間が獲得したものを天使を通して霊界神界に届ける。肉体を纏い地上界での経験を通しながら愛の存在として内的霊的に獲得されたもので、自分が住まう霊界様相を天使が築いていく。自分がこの世に生まれ出でた意味は大きい。人生の意味が解らず、或いは知ろうとせず一生を終える者が殆どであるけれど、それは眠りについたまま覚醒することなく人生を無駄に過ごしていると言う事だ。本来の人間としての意識が発動されていない。今日を生き永らえることが意味のあることでなく、今日を生きて何を獲得し何を天使に委ねたのかが問われる。天使は霊的存在として肉体という物質に直接的に働きかける事はない。人間、肉体的に目覚めている間は意識は地上界に浸透していて天使が入り込む余地は余り無い。地上界での経験を通してどれ程内的霊的な事柄、愛に関する深み等、物質を越えた実りを刈り入れる意識と意志を持つ事が目覚めている事の意味だ。眠りについて意識を外す時、刈り入れたものを天使が受け取ろうと待ち構えている。より多くをもたらせばもたらすほど、天使存在との関係は親密になる。そうなると天使がもたらす神様のビジョンも、より強い形で届けられる。昨日の自分と今日の自分を比べてみてより善の想いを少しでも強くするなら、或いは半時先には一歩でもより善なる在り様に近づこうとする意志を持つなら、それだけ復活したと言え、その分天使からのビジョンもはっきりしたものとなり自分の理想像をはっきりと認められるようになる。どれ程小さな一歩であってもそれを重ねる事で、思考にしろ行動にしろ善への意識的なものとして人間様相に表れてくる。
2008年12月18日木曜日
魚釣り
御父様が魚釣りの名人であるなら弟子としてその極意を学び、この、人の世という大海で魚ならぬ人間を釣ることが御父様の願いに応える者としての務めだろう。むやみやたらに糸を垂らしても簡単には食いつかないし、時間の浪費になるのが関の山だ。万物復帰だ伝道だと言われながら、とにかく飛び出し飛び込むことしか能が無い段階は当の昔に卒業していなければならない。にも拘らず相変わらず、旧態依然の遣り方しか思い浮かばないとするなら、修練訓練として設けるならまだしも、それを天の願う方法だと固執するのは知情意を備えた人間としてはどうだろう。何もしないよりはましだと言われれば納得もするが、それを信仰であり侍ることだと言うなら、その中に自分は信仰生活をしているという自己満足的な要素があるのではないだろうかと問いたい。人の世のうねりの中で伝道するにしても或いは経済という大海で財物復帰するにも、人情の機微を深く研究する必要もあり、ビジネスの道理も人一倍研究する必要がある。人の世としてどの様な事に皆の関心があり、どういう情の流れ、価値基準の在り様、気持ちの向く先等を大海の潮の流れのように捉え見据える事が必要だ。潮の流れを読める者でこそ大漁にありつける。更に人間皆平等と言えども多種多様な中から、どのようなクラスにターゲットを当てるのかで漁場も漁の方法も変わってくる。悲しいかな圧倒的に食口は雑魚の部類に入ると思う。自分も雑魚だが自分と自分の周りだけがそうではないだろう。雑魚は雑魚のことしか解らない。雑魚を卒業しないと、この世の多くは我々の一段も二段も上に位置する中級上級魚だ。今、自分も三十年もの歳月を踏んで、その間、人の世の在り様や価値観は大きく変わってきている。その間、決して堕落要素だけが突出し、陰惨な事件に見られるような様相だけが表面に表れている訳ではない。若い人の外的在り様を見る限り、明らかに美形も多くなったしスマートな頭脳回転も見られる。その基準を超えない限り、釣るどころか逆に釣られてしまうか相手にもされない。教会は教会として、家庭は家庭として、そしてそれぞれの信仰も新しいステージにステップアップする時であり、真の愛、真の父母に対する理解を新しい次元の意識として、意識の生まれ変わりを図り、新しい価値観、新しいシステムでこの世を大きく凌駕し刺激し教育していく事ができる真の愛の群れとなる。
2008年12月16日火曜日
今日の想い 33
田んぼに水を引く為に幅一尺から一尺半の水路が廻らされている。三枚四枚ごとの田に水を配る為に何本かの支流に分かれる訳だが、支流の多い分け目はある程度の深みを持たせて容量を大きくしておかないと水の届かない所がでたり、水が行き渡るのに時間の差が出たりする。実はこの深みが実にいい魚捕りのポイントで、小さい頃よく魚を捕って遊んだものだ。所詮用水路だからフナやハエ、ゴキにザリガニぐらいのものだが、ざる一つで面白いように獲れた。結構な山椒魚まで掬い上げたのを覚えている。鮎や山女と言った清流に棲むような上品な魚ではないので、別に捕って食うわけじゃないから、小さい魚をバケツ一杯になるほど捕ってそのまま忘れ呆けてしまい、叔父によく怒られた。子供の時分というのは結構な残酷さを持っている。叔父は生き物に対する殺生を指摘するのだが、怒られるから悪い事だとは認識しても、殺生自体に対する罪悪感はあまり無かったりする。診療所の裏に木箱に廃棄された医療用具から注射器を取り出して、友達と遊んだこともあった。田んぼに幾らでもいる蛙を集めて注射針で空気を腹に注入し、裏手の川に、注入したはしから流した。白い腹を膨らませてぶつかりながら川面を流れていく様が今も思い浮かぶ。あのおびただしい数の蛙はどうなったのだろうか。桃太郎の桃ではないが、白い生々しいものが幾らも流れていく様を畑作業していた者が見て驚いたのだろう。すぐさま村中広まってしまい、悪さがばれてこっぴどく怒られた。さすがにその夜の寝付きは悪かったが、遊んでいるうちは楽しかった。別に自分に限った事でなく、誰もが子供の時分はある程度の残酷さを持っていると思う。胎中の様子も人間の進化路程であるように、人間が辿ってきた一つの魂の段階の初期に於ける残酷性を持っている。けっして神から来るものだけでない衝動を併せ持っている。平和を望みながらも戦争に突入する時高揚感を覚えたり、自分に降りかかるのを極端に避けながら、周りの人に降りかかるのには痛みを感じない自分がいたりする。こと自分や家族に関することには涙を流しながらも、他人事であれば心の隅でほくそ笑むという醜くも惨めな存在だ。子供の頃の純粋さをキープしながらも残酷な影の部分を乗り越えながら、生きて関係を持つ人々に対する思い遣りの気持ちや同じ兄弟としての友愛、年長に対しては親や祖父母に対する感情、年若い者には自分の子に願う想いと同じ想いを強くしていく。年を重ねるに従ってそういった想いをより強くしていくのが、人間としてのあるべき成長だと思う。それが人間として生まれた者の責務だと思う。今年と言う一年も終わろうとしている。此の一年どれだけの内的霊的成長を自分に見ることができたか。
2008年12月13日土曜日
今日の想い 32
ひもじい思いだけはしなかったが、貧しい中で育ったから、周りと比べて恥ずかしい思いはしてきた。日の丸弁当を見られるのが嫌で、皆から離れて、腕で囲うようにしながらそそくさと昼飯は済ませた。田舎だからそう立派な弁当を持参してくる者がいたわけではないが、卵焼きの匂いやら揚げ物の匂いのする弁当を広げて食べる横で箸を進めるには、皆の視線が気になった。ランドセルも小学校に入る時に買っては貰ったが、皆と比べると、持ちが非常に悪く、三年生になるころにはボロボロで使えなかった。その後はずっと風呂敷に包んで通学していた。一番困ったのが傷があちこちに入った長靴だった。雪国だったので冬場は長靴で学校に通う。学校は家から近かったので、靴の傷口から雪が侵入しても溶ける前に着く。しかし体操時間となると必ず屋外でサッカーだったりスキーだったりで、長時間外にいないといけない。スキーも今見るような上等なものじゃなく、スキー板にかんじきをつけたような代物で、長靴にくくり付けて滑った。二時間近く外に出ていると侵入してきた雪が溶け、靴下に浸みて足を氷水に漬けたような状態になる。これには耐えられなかった。冷たいのを通り越して痛かった。足の感覚が無くなって来ると今度は痛みが頭にくる。気が小さく、言いたい事が言えない自分はそれでも耐えるしかなかった。何とか工夫して破れ靴下を重ねたり、長靴の中にビニール袋を入れてみたり、逆に裸足で長靴を履いて濡れるたびにタオルで拭いてみたりと、いろんな事をやって見たが功を為さなかった。それでも新しい長靴を買って欲しいとは言えなかった。弟とは少し年かさも離れていて、弟が学校に通う頃には幾らか商売も回り始めたのか、自分の事はしっかり要求する性格もあって弟には結構それなりの事はしてやっていたようだが、可愛そうに思ったのは妹だった。同じように日の丸弁当を持たされ、私のお下がりで大抵の物は賄ったから穴の開いた靴下しかなく、長靴だって穴は開いていた。女の子だけに自分以上に恥ずかしい思いや嫌な思いをしたと思う。明るい性格ではあったけれど家に余裕が無いのは解っていて、金のかかることはいっさい口にしなかった。その当時の妹への不憫な想いは今でも時折思い出される。教会に通い始めてみ言葉に対する感動を最初に伝えたかったのは妹だったが、献身生活を始めると私的な時間も更には心の余裕もその内消え失せて、妹を伝道するには時間も無かったし躊躇もした。軍隊生活のような当時を恨む想いは無いが、み言葉に対する感動が、心からみ言葉を伝えたいと言う思いに育ち始めた頃、それが出来る内外の環境にはなり得なかったのかと言う思いがどうしてもある。伝道への衝動が今一度湧き上がる日を望むのは、可笑しな話なのだろうか。
2008年12月11日木曜日
今日の想い 31
毎年此の頃になると通りも店もいろんなオーナメントで飾りつけられ、クリスマスソングが響き、日が暮れるとそれぞれに趣向を凝らしたイルミネーションが家々の輪郭を点滅させる。しかし此のたびほどそう言った事が似つかわしくない、どこか空々しい感覚や雰囲気が蔓延することはかつて無かった。確かに買い物客もそれなりに出かけているのだろう。メインストリートもそれなりに混んではいる。しかし暗く沈んだ空気はどうにも無視しようがない。明らかに霊的な空模様、天候が一変した。人々の内的模様が沈んでいる状態で、どのように販売促進を行ったとしても、それに値する成果を得る事などない。既存店舗の全てに於いて売上が下がる傾向にありながら、売上を上げることに躍起になっても決して良い結果は望めないだろう。悲観論に終始する立場で言っているのではないが、売り上げを上げる事がどういう意味があるのかを考える必要がある。ビジネスとして売上追求、利益追求は宿命だと言い切ることもできるが、ビジネスである前にみ旨として、或いはそのような物言いが大げさであるなら、単に幸せを願う人と人との遣り取りを考えた時に、店であれば商品、レストランであれば食事を介して提供する側は何を与える事ができるか、何を与えたいか。商品を与えるのみ食事を提供するのみという認識では客は来ないだろう。プラスαとして考えるのでなく、それを主体として、そして提供するものを対象として考える。自分は何を与える事ができるのだろう、更に、何を与えたいのだろう、という質問がキーワードになる。受けることを先ず捨てて与えてこそ、原理が正しいなら与える存在、為に生きる存在でこそ、その存在は枯れる事がない。存続させる為の受けるものを得る事が出来るはずだ。子供だましでない本当の必要存在であってこそ存続できる。
2008年12月9日火曜日
今日の想い 30
人間は霊の存在である。自分の霊の在り様がわからず、彷徨っているのが堕落人間の姿だ。人間誰もが死を迎える。この肉体を脱ぎ、霊の身体で霊の世界に赴く。しかしこの地上を霊界と区別するけれど、肉体も、全ての物質存在も、霊の表れに過ぎない。自分が霊の存在であり又その霊の在り様が見えないように、流れ行く時間にどの様に霊が働いているか、物質の生成に、民族や国の成り立ちに、政治や経済の動向に、それら全てのこの世の事柄に霊がどう関わっているのかを見ることができない。五感に受け取る表面的な輪郭のみを判断材料にしている。霊を物質に凝縮されているものを私達は五感で受け取っている。念ずる事、即ち精神力で思いを実体化できることが霊の凝縮であることの証だろう。祈りが通じることを理解しようと思えば、その認識に立つことが必要だ。ひとつの願いとしてのイメージを持ったら、思いを強く強くしながら、必ず成し遂げるという絶対的想いに裏付けされて、実体化される。実体化されてこの物質世界に存在している全てのもの、すべての技術やシステム、それらの事柄は人間を含めた霊的存在の想いで物質世界に形成されたものだ。即ち全ての事柄にそれ足らしめる霊的存在の想いがある。夢があり理想があり願いがあり、そしてイメージがある。大きくは宇宙から、周りに転がる石ころまで、更には人間一個一個の在り様に至るまで熱い想いが根底となって存在している。しかし神から来る熱い想いと相まって、偽りの神として関与したこの世の神の想いも人間存在に関わる事柄には複雑に絡まっている。生きるに霊が関与し、幸不幸に霊が関与し、貧富に霊が関与し、成功失敗に霊が関与する。病に関与し、男女に関与し、体型や性質に関与する。お化けが見えたり聞こえたりできるのが霊的感性を研ぎ澄ます事ではなく、背後の想いや或いは逆の方向にある恨みを感じ取ろうとして感受できることを言う。人に見えない霊的存在が簡単に見えたり聞こえたりするのは低次元霊視ともいえるが霊障であって霊に犯され易いとも言える。正しく認識し、正しい価値観を備える。人間として神から付与された創造性は、自らの霊性を喚起することで初めて価値あるものとして産み出される。今置かれた環境がどのようであっても、そこを自分の住まい居所そして天国として創造していく霊的力を人間は備えられている。
今日の想い 29
御父母様が時として吐露される、誰も理解できない御父母様としての孤独な在り様。年を重ねられて、以前には無かった涙される姿を見せられ、周りの人や責任者は戸惑う。我々には立ち入る事ができない神様と御父母様の世界が、そこに厳然とある。この堕落世界に肉体を纏い生きること自体が御父母様にとっては言いようの無い苦痛を受けることなのだろう。生きることそのものが御父母様に取っては犠牲なのだろう。どれほど御父母様に歩み要ろうとしても、どうにも後ずさるを得ないものを自分自身に見る。堕落の末裔としてこの世に存在する自分は、受ける全ての苦労や痛みが、その罪ゆえであることを理解している。自業自得のカルマがそうさせているのであり、今の堕落の在り様を選んだのであり、あらゆる汚い自分の在り様を曝し生きることに没頭している。しかしイエス様がそうであったように、御父母様は堕落の血統圏外からこの堕落論理で動いている堕落世界に足を踏み入れられ、汚らわしい汚物に塗れながらその使命を全うされようとされている。あらゆる堕落感情が悪臭を放ち、陥れようとするあらゆる欺瞞存在に傷つけられ、全身創痍で息も絶え絶えに、いつ事切れるか解らない様相を辛うじて維持されながら、まさしく生きて十字架を背負われ更に十字架に架かられ、その在り様を肉体の背後に隠されながら歩んでおられる。イエス様がそうであるように、全く謂れの無い、晴らす必要の全く無い、堕落人間とは根本的に違う、神様に直結している自我の存在でありながら、無実の罪を、それも全人類の大罪を背負い、その罪を責められる立場で、それを晴らすべく歩んでおられる。我々堕落人間に想像だにできない、暗黒の絶壁であり氷壁に、真っ裸で取り残される孤独の魂として、如何ばかりの心情路程であるのか。どれほど祈り求めようとも、御父母様の内面は解りようも無い。どれほど深く掘り下げても、深く深く想いを尋ねれば尋ねるほど益々、その想いの更に深みにあるのを悟らされるのみだ。御父母様の御魂に会いたいとすれば、どのようにでも御父母様との関係性を深めたい。み言葉の一つ一つに尋ね、み旨に対する想いに尋ね、その表情に尋ね、小さな目に輝くその光に尋ね、ほとばしる涙と、流れ出る鼻水よだれを気にも留めず、神様に言葉をかけられるその祈りに尋ねる。近くによって無視されようが激しく怒られようが、何らかの関わりが持てればそれを良しとし、御父母様の願われる事に魂をかけて応えたいと思い、今日に物乞いを願われるなら物乞いとなり、明日に死ねと言われれば野垂れ死も辞さない。この身がどうなろうとも、この小さい魂に御父母様の御魂が尋ねてくださるその時こそ、この自我が開放される時であり、報われる時である。
2008年12月8日月曜日
今日の想い 28
人間の魂の深みに位置する、本当の自我という神から来たものを、どれ程傷つけ、どれ程弄んでいるかを認識しない限り、御父様が語られる心と身体の戦いを理解する事はできない。消え入りそうな自我の在り様そのものが、神様の在り様と言える。人間存在が人間形態の発達と共に深く結びつき、肉体を纏う事で、自我存在である事を忘れているどころか、霊的存在であることすら理解できない今の在り様になってしまった。獣と交配したに等しい堕落事件は、自我を陵辱した行為そのものであり、辱めた当の存在を自我に絡めているのであり、その悪魔的存在や悪魔的在り様から来るものに、魂も肉体も翻弄されながらも、それが自らを弄ぶ元凶であることが認識できず、それを良しとして今日まで延々と生を繋ぎ、救われぬ魂が幾度も幾度も受肉され生まれ変わってきた。霊的無知とは、霊界や霊の存在に対する無知を言うけれど、それ以上に弄ばれ捨て去られる魂の嘆き、魂の痛み、魂の恨みを見ることができない事を言う。自分に対する想い、目の前の人間に対する感情はその殆どが消え入りそうな自我に巣食う、絡んだ悪魔的存在の思いである。目の前の人間は他人と思えば遣り過ごすこともできるが、相対者として宛がわれ、一生永遠の伴侶として天の前に誓いを立てたとなると、否が応でも真正面から沸き起こる感情に対処せざるを得ない。いきり立つ感情そのものを、原因は相手にあり、相手の不条理によって自分そのものから湧き出るものと言う認識を超えることができず、その感情の出所を掴み羽交い絞めするに至らなければ、相対者と一つになる夫婦一体となることなど難しい。いきり立つ感情も、或いは逆に恋愛的感情も、自我を起点としたものでなく、自我に巣食う悪魔的存在、悪魔的在り様に端を発している。その認識を得るためには、樹海を彷徨いながらも魂の奥深くに分け入っていかない限り、その正体を暴く事はできない。主管できない感情を自分とは違う別様の獣でも見るような内的客観性、即ちみ言葉の剣による分別を備えたものとなる。その感情を超えて、与える事愛する事を本質とした本来の自我こそ自分である、この魂であると悟り、感情を押し殺す事に躍起になることが問題ではなく、本来の魂から来る愛する意志を偽りの感情故に抹殺していることが問題なのだ。
2008年12月5日金曜日
今日の想い 27
イエスと弟子達の一連の時間的流れを見ながら、御父母様と祝福を与ったものとの状況を考察する事ができる。食口と自認する者達がどのように御父母様を受け入れているか。講論に目を通せば、かつてのどの宗教書にも見出せない、その論理性と表現性を持ってはいるが、我々の内どれだけの者がその内容に感化されてやってきたかと言うと、自分を含めて甚だ疑わしい。み言葉に触れ教会に触れているうちに引き寄せられてしまったと言うのが正直なところだろう。悩みの中にあって真実を求めた者も中にはいるだろう。自分もそのひとりとは思うが、別の宗教なり思想に触れていれば肌の合いそうなところに落ち着くだろうし、別にここで無ければならないと言うほどのものでも無かった様にも思う。ペテロが人を捕る漁師にしてあげようと言われてほいほい付いていったのと同じように、天国は三年でできると言われて付いてきた、誰も彼もそんなところだろう。明かなのは自分が求めた条件で来た道でなく、真の父母からくる条件でもって仮聖徒としての位置を与えられたと言う事だ。み言葉の意味するところ、真の父母の価値の本質が解らずに付いてきている。では我々が本当の意味で天の願い、真の父母の勝利された内容を相続できる日はいつなのか。聖霊降臨がなされたように竹でも割ったような在り様で堕落様相から一転して完成復活様相に様変わりする日を見るのはいつなのか。遅々とした成長の今の自分の現状を見る限り、み言葉の在り様に自分を高めていこうと思えば一度の人生では足りない。御父母様の備えられた自我、魂の在り様に皆がなれるとすれば、それはイエスが肉体を脱がれて霊的存在としてあまねく人々に下っていったような事柄がある時だと思う。それが肉体を脱がれた時か或いは2013年の事なのか解らない。天地をひっくり返すような出来事が起こるのは必然ではあるけれど、その時まで何をしたって同じだと言う感覚であれば、そのXDAYの出来事の真意を理解してはいない。イエス様は霊的救いという限定的な救援摂理に留まったが故に、あのようなペンテコステの在り様となった。しかし御父母様の使命は完全救済、霊肉共の救済である。であれば霊的現象のみならず肉的現象としてのペンテコステが起こる。必ず起こる。宇宙が生まれ変わり、地球が生まれ変わり、そして人間ひとりひとりが生まれ変わる。霊的在り様としてみ言葉実体に限りなく近づいていない限り、肉的ペンテコステに耐えられない。結局、訓読経も実践も、誰の為ではない自分の為、即ち完成復活への最後の準備を為している。内的霊的エネルギーを最大限投入しながら、そう時がない今の今を実りあるものとして歩んでいる。
キリストを考える
旧約聖書に目を通すと、人間の魂の道徳的在り様の低さを、幾らでも見出せる。神の命として町を焼き払い全ての民を根絶したり、兄弟間の殺し合いから近親相姦まで、ありとあらゆる不条理がまかり通っている。そういった在り様は新約に至るまで続いた。人類史を復活摂理から見るとそれぞれの時代区分に於いて復活された魂の成長段階は違うので、今の人間の魂の道徳的在り様と比べれば明らかに劣ってはいる。しかし、顕著な違いが見出されるのがイエス以降の魂の在り様だ。イエス以降、それまでには見出せなかった道徳的な衝動、許し、愛、救いと言った新たな魂の衝動を見ることができる。イエスが十字架に架かったことでその新たな内的在り様にそれぞれが眠りから醒め脱皮したように、ペテロを初めとする十二使徒や多くの弟子達にその在り様が伝播していった。その当時、ギリシア哲学はその論理性で最高点にある。今ですらその論理性はすべての宗教思想、哲学が超えることは無い。十字架によって眠りから醒めたクリスチャンと言われる内的在り様は急速に伝えられ、多くの人々に住まう様になる。論理性を全く持たないキリスト的在り様が、論理に長けた当時のローマや周辺に受け入れられていったのはどういう理由があったのか。何がそうさせたのか。そこに論理的理由は無い。後付で様々な学者がそれぞれに説明してはいるけれど、心を動かすものは無い。論理で説明できないものを、明らかに彼らは受け取ったのであり、イエスの語った言葉やその生き様を付した福音書を通して、その言葉に神霊聖霊が宿され、その言葉を受け取った者は神霊聖霊が受精したようにイエスの分霊としてクリスチャンとして生まれた。外的に見るなら、その言葉を仲介として生まれ変わったのだ。かつて無かった感情をもたらす尊くも清い聖なる雰囲気を持つ内的在り様として生まれ変わったのだ。歴史の中の聖賢聖者達に見るように、地上に於いて高められた内的在り様を、肉体を纏っている間に理解されることはそうない。肉体を脱いで霊的存在となった時、その高みに至った内的霊的在り様を多くの者達が受け取ることができた。今の時代、クリスチャンと自認する者は限られているとしても、キリスト教的文明、キリスト教的生活様式、キリスト教的内的在り様にしっかり浸透されている。魂の奥の奥を垣間見る事ができれば、人類に開示されたイエスの霊が誰にも備わっているのを見出せる。他の宗教指導者とは全く違う次元で、その在り様を宇宙と人類に開示し浸透されている。
2008年12月4日木曜日
真の父母を内在する
自分の拠りどころを外に求めている限りは何の得るものも無い。五感を通して受け取るものの中に本質を見ようと幾ら試みても、あらゆる情報を取り込みながら自分の拠りどころを探そうとしても、受け取るものが多ければ多いほど、情報が増えれば増えるほど、更に自我は混乱を来たす。外に求めていた本質が、実は内にあることに気付いた時、幻想から目覚めて初めて本質を獲得する道を辿る事になる。人間としての魂が物質世界に降下し、肉体への結びつきを極限まで成し遂げた今、自分自身の本質を肉体に覆ってしまったことでその本質を見出せないでいる。ある時点から外に外に求めてきたのが科学の歴史であり、外界への探求を追求することであらゆる本質を見出すことができると錯覚した。人間の内的在り様、内的幸福も、何処かにあるはずだと外にばかり目を向けて探す事しかできない、内面に旅する事を気付くに至らず今日まで歩んできた。確かなものとして物質世界があり内面の事柄は物質作用の過程で生じる実のない幻想として扱われていたが、実は外界こそ幻想であり内面の世界こそ実質であることに気付いて初めて目が覚め本質への旅を始める。信じる信じないに関わらず、その対象への概念を既に持っているので、在ると信じたり無いと決め付けたりする。神がいるとかいないとか霊界が在るとか無いとか、そう判断する前に概念として既に持っている。概念として持っている事柄は輪郭は曖昧でその実体認識から遥か遠くとも、既に在ると認めている。在ると認めて、それがどの様な在り方をしているかを問うほうが遥かに利口で理に適っている。神様を外に見出そうとしても、在るとは証明できるが証明されたところで自分との関わりを見出せない限り、無いと言う認識と何ら変わるところは無い。神様はあなたの中にある、と言うこの言葉の意味を理解する必要がある。自分の中に在るらしいが自分とは別様に捉えている以上、実は外に置いている。そうではなく、神様はあなたの中にあるとは、誤解を恐れず言うならあなた自身ひとりひとりが神なのだ。分身としての神そのものなのだが、幾重にも幾重にも偽りの神、偽りの神霊が取り巻いているので、その光を解き放つ事ができないでいる。あらゆる宗教もそれに伴うあらゆる修行も、更にみ言葉もみ旨も、自分であり自分の神としての存在足らしめる磨き粉と言っていいと思う。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは分神霊を宿した自分に対する絶対信仰絶対愛絶対服従でもありうる。自分の在り様がわからず、おどおどしながら周りの兄弟に合わせようとする態度自体、既に絶対信仰から外れている。自分を神の分身として愛することを無視して魂の成長に加担しない以上絶対愛から外れている。肉の思いに左右されて神霊宿る魂への服従無しに絶対服従からは外れている。真の父母が生きて自分自身となって活動しているという実感を備えた者、自分の魂そのものが真の父母だと言い切れる程に受け入れた者こそ、天一国を見る者であり天の血統圏に参与する者だ。
2008年12月3日水曜日
田舎
今年は早々と初雪が降り、日本海沿岸は全域に渡って白いもので覆われた。11月も半ばを過ぎたので田舎は寒いだろうとは思ったが、まさか雪が積もっているとは思わなかった。広島から益田に向かう便は日に二度しか走らない。朝の便は間に合わないので、いつも夕方6時半の便になる。市街を出ると中国自動車道を走り戸河内インターで降りて更にくねくねと山道を登っていく。標高最高点の村の入り口まで二時間の道のりだがインターを降りた辺りから雪が舞い始めた。周りはいつの間にか雪景色らしいがバスが上るうちに道路も雪道になっていた。降りる停留所は表示が立っているだけで周りには何も無い。バスが過ぎ去ると雪舞う暗闇の中に置き去りにされた。背後から声が届き、一瞬ビクッとしたが振り向くと親父が立っていた。脅かすなと挨拶代わりに声をかけ、迎えに回した車に乗り込むと、途切れ途切れにある民家の灯を蛍でも見るように数えながら、寂しい道のりを走らせた。いつ帰っても田舎は静まり返っている。どうしても心を暗くする。しかしここで生まれる事を選んだのは自分だろうし、ここで育ったことで今の自分がある。ここで生まれた誰もが刈尾の山の麓で刈尾の山を見ながら日々を送った。この山がここで生まれ育った者の中に在る。存在感のある聳え立つ山に比べれば、なだらかな尾根の刈尾山は謙虚でおとなしい。その内なる在り様がそれぞれの魂に備わっている。声を張るものも声高に遣り合うものもいない。四季折々の様相そのままに魂を染めながら、すれ違えば何よりも誰よりも天候のことを話題にし、泣きたくとも泣かず笑いに昂ずることも無く、感情の高まりをいつも抑えながらその日の勤めに励む。産むに大騒ぎもしなければ逝くにも当然のこととして受け止める。質素で派手さのひとつもないこの田舎こそ自分そのものなのだろう。田舎に嫌悪感を感じるのも自分の様相そのものだからこそ、そう感じるのだろう。二日を過ごし、出るときは気温も上がり空も冴え渡った。幾らかの名残惜しさを覚えながら、それをかつて今まで感じたことの無かったのを新鮮に思いつつ、故里を後にした。
2008年12月2日火曜日
金星と木星、そして三日月
珍しい惑星の集合は古代の預言者や占星術士に取って大きな意味を成した。東方の三博士が星を頼りにベツレヘムの生誕の地まで訪れたと言われるベツレヘムの星は金星と木星が接近した天体の状況を言ったのだという説がある。昨日(12月1日)、黒い雲が昼過ぎくらいから覆い始め、このまま夜になるんじゃないかと思えるほどだったが、暮れかかる頃には西の空から碧い空が広がり始め、幕が開くように霧散して雲間が広がっていくと、三日月と共に輝くふたつの星が接近して現れた。まさしく天体ショーとしては息を呑むほどの演出で、しばし口を開けて見とれた。この二つの星は金星と木星で、彼らが月に話しかけているようなそんな構図である。紀元前2年6月、ベツレヘムの星として接近して現れた時、その意味を理解した者がいたように、2008年12月1日前後のこの接近の意味を理解している者がいるかもしれない。正にその如くとして、キリスト再来の表れとして心に刻んだ者もいるのだろうか。そんな事を思いながら部屋に入った。今、科学と言う幻想に洗脳された人間は、星や惑星の意味、またその存在や動きの意味を全く理解していない。人間が小宇宙と言われる所以の本当の意味を理解していない。人間と星、とりわけ惑星とは切っても切れない関係がある。望遠鏡で覗いている限りはその関係を見ることはできない。見上げる事に意味があるのでなく、霊肉の生命活動にどう関わっているかを見る事に意味がある。一つ一つの惑星が霊肉の生命活動としての根幹を成している。ある意味、惑星の活動の中に自分が活きている。人は睡眠中無意識だが、睡眠中の意識を獲得すれば惑星の活動の中に自分があることを理解するだろう。であれば昨夜の惑星接近の意味が、唯単に見るに良い天体ショーとだけ捉えられない、自分と人類と宇宙に直結する何かの影響を背後に見ようとせざるを得ない。
2008年12月1日月曜日
遠方より友来たる
遠方より友、来たる。彼よりは大きくなった子供四人連れて、妻の眠るセメタリーがあるこの地にやって来た。毎年、夏の墓参りは欠かさなかったが、今年は諸般の事情で、このサンクスギビングホリデーとなってしまったようだ。必ず家族全員揃って来るところが偉い。時は矢の様に過ぎ去り、事故が起こってから既に三年の月日が経つ。彼自身、悩みや苦労話など内的な事はあまり話そうとしないのでよく解らないが、今に至るまでそれなりの結晶化される魂の在り様に落ち着くまで、相当の内的精製路程があったはずだ。一人一人の子供に至ってもそうであろうし、未だその過程に今もあると思う。遅くに着いて皆疲れきった面持ちで、やっと私の店で食事にあり付けた風で物静かに食事が進む。しかし一つ二つの質問を投げかけると笑みを浮かべて誠実に答えてくれる様子を受け取りながら、亡き母に護られて今日まで来た事がストレートに伺える。彼ら家族に取って晴天の霹靂とも言える事柄が襲い、本来なら言いようの無い恨みや遣り切れなさが残って、二次災害とも言える問題が起こっても不思議ではないが、天は良く知っているようでそれに耐えうる魂の力を既に彼らに用意していたのだろう。全ての子供に何の暗い陰もない。母の想いがそのまま彼らの胸に育ち、意識するせざるに関わらず母と共にあるのだろう。ほんの短い時間であっても彼らに接していると、そこにY子さんの声が今にも聞こえ、香りだって来るほどだ。特に二番目の女の子は彼女に生き写しで、内的な様相もそっくりで見ていると彼女がそこにいるような感覚があり懐かしさの涙で目を潤してしまう。家族の事にしろ店の事にしろ、まだまだ苦労は付いて回るだろう。しかし霊的に見るなら輝く日々を送っているのは明らかだ。霊界に於いてその輝く日々が珠玉のように連なり、かけがえの無い愛の結晶となって彼らの霊界様相、霊界環境を鏤めるのだろう。その光り輝く様を彼らの澄んだ黒い目の一つ一つに見て取れる。どんなに疑おうとも疑いきれない真の愛の証の実体がここにも咲いている。
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