2008年12月29日月曜日

み言に対する姿勢

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。(ヨハネによる福音書1:1~5)
聖書は霊的書物であるから毒された人間思考(唯物的思考)を持って理解する事はできない。論理で理解しようとするそれ自体が聖書に対する態度ではない。他の福音書は同じ事柄を同じ方法で語っているが、それに比べヨハネの福音書は全く違う述べ方をしている。特に冒頭のこのくだりから始まる内容は論理に耐えられるもののみを受け取る現代人には理解を超える内容に違いない。言は神だと言われて、言に対して持つイメージや概念と、神に対して持つイメージや概念とを照合させようとする。先ずこの唯物的イメージや概念を捨て去らないと聖書の言葉を受け取ることはできない。極左主義などの危険思想と思っている唯物論は唯物論の最終段階に過ぎない。現代人の殆どは唯物的眼鏡をかけている。言葉には力がある。言葉は生きている(命がある)。言葉は神である。これらを理解するには物質を超えるもの、感覚を超えるものへのまなざしを取り戻す必要がある。高みにある存在に対する畏れ、畏怖を覚えることを学んだ者がそのまなざしを取り戻せる。御父様のみ言を受けて、神の理想に対する熱い想いを受け取らないのであれば、み言を受けいれたとは言えない。み言を受けて、御父様の理想に対する熱い想いが自分に伝わってこないなら、同じ言葉を受け取る共鳴圏にない。次元がずれている。御父様が感じておられる同じ熱を自分の中に少しでも実感できる自分であってこそ、本来の在り方に近いだろうし、自分の中にそれが見出せないなら、理想熱の欠如に対して、御父様の心情圏から疎外されている悲しみや悔しさを覚えるものになることが、悔い改めの衝動を発する。そこが信仰の原点だろう。高みにある存在(神様)に対する畏怖の念と御父母様に対する悔い改めの心情は、霊的内的に見るなら同義語とは言えないまでも似通った在り様だ。平安な日々に埋没することで、そういった感情を持たないとするなら御父母様と何の関係があるだろう。死の門を超えたとき、受けた祝福が恨みとなる。

0 件のコメント: