2008年12月4日木曜日
真の父母を内在する
自分の拠りどころを外に求めている限りは何の得るものも無い。五感を通して受け取るものの中に本質を見ようと幾ら試みても、あらゆる情報を取り込みながら自分の拠りどころを探そうとしても、受け取るものが多ければ多いほど、情報が増えれば増えるほど、更に自我は混乱を来たす。外に求めていた本質が、実は内にあることに気付いた時、幻想から目覚めて初めて本質を獲得する道を辿る事になる。人間としての魂が物質世界に降下し、肉体への結びつきを極限まで成し遂げた今、自分自身の本質を肉体に覆ってしまったことでその本質を見出せないでいる。ある時点から外に外に求めてきたのが科学の歴史であり、外界への探求を追求することであらゆる本質を見出すことができると錯覚した。人間の内的在り様、内的幸福も、何処かにあるはずだと外にばかり目を向けて探す事しかできない、内面に旅する事を気付くに至らず今日まで歩んできた。確かなものとして物質世界があり内面の事柄は物質作用の過程で生じる実のない幻想として扱われていたが、実は外界こそ幻想であり内面の世界こそ実質であることに気付いて初めて目が覚め本質への旅を始める。信じる信じないに関わらず、その対象への概念を既に持っているので、在ると信じたり無いと決め付けたりする。神がいるとかいないとか霊界が在るとか無いとか、そう判断する前に概念として既に持っている。概念として持っている事柄は輪郭は曖昧でその実体認識から遥か遠くとも、既に在ると認めている。在ると認めて、それがどの様な在り方をしているかを問うほうが遥かに利口で理に適っている。神様を外に見出そうとしても、在るとは証明できるが証明されたところで自分との関わりを見出せない限り、無いと言う認識と何ら変わるところは無い。神様はあなたの中にある、と言うこの言葉の意味を理解する必要がある。自分の中に在るらしいが自分とは別様に捉えている以上、実は外に置いている。そうではなく、神様はあなたの中にあるとは、誤解を恐れず言うならあなた自身ひとりひとりが神なのだ。分身としての神そのものなのだが、幾重にも幾重にも偽りの神、偽りの神霊が取り巻いているので、その光を解き放つ事ができないでいる。あらゆる宗教もそれに伴うあらゆる修行も、更にみ言葉もみ旨も、自分であり自分の神としての存在足らしめる磨き粉と言っていいと思う。絶対信仰、絶対愛、絶対服従とは分神霊を宿した自分に対する絶対信仰絶対愛絶対服従でもありうる。自分の在り様がわからず、おどおどしながら周りの兄弟に合わせようとする態度自体、既に絶対信仰から外れている。自分を神の分身として愛することを無視して魂の成長に加担しない以上絶対愛から外れている。肉の思いに左右されて神霊宿る魂への服従無しに絶対服従からは外れている。真の父母が生きて自分自身となって活動しているという実感を備えた者、自分の魂そのものが真の父母だと言い切れる程に受け入れた者こそ、天一国を見る者であり天の血統圏に参与する者だ。
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