2008年12月8日月曜日

今日の想い 28

人間の魂の深みに位置する、本当の自我という神から来たものを、どれ程傷つけ、どれ程弄んでいるかを認識しない限り、御父様が語られる心と身体の戦いを理解する事はできない。消え入りそうな自我の在り様そのものが、神様の在り様と言える。人間存在が人間形態の発達と共に深く結びつき、肉体を纏う事で、自我存在である事を忘れているどころか、霊的存在であることすら理解できない今の在り様になってしまった。獣と交配したに等しい堕落事件は、自我を陵辱した行為そのものであり、辱めた当の存在を自我に絡めているのであり、その悪魔的存在や悪魔的在り様から来るものに、魂も肉体も翻弄されながらも、それが自らを弄ぶ元凶であることが認識できず、それを良しとして今日まで延々と生を繋ぎ、救われぬ魂が幾度も幾度も受肉され生まれ変わってきた。霊的無知とは、霊界や霊の存在に対する無知を言うけれど、それ以上に弄ばれ捨て去られる魂の嘆き、魂の痛み、魂の恨みを見ることができない事を言う。自分に対する想い、目の前の人間に対する感情はその殆どが消え入りそうな自我に巣食う、絡んだ悪魔的存在の思いである。目の前の人間は他人と思えば遣り過ごすこともできるが、相対者として宛がわれ、一生永遠の伴侶として天の前に誓いを立てたとなると、否が応でも真正面から沸き起こる感情に対処せざるを得ない。いきり立つ感情そのものを、原因は相手にあり、相手の不条理によって自分そのものから湧き出るものと言う認識を超えることができず、その感情の出所を掴み羽交い絞めするに至らなければ、相対者と一つになる夫婦一体となることなど難しい。いきり立つ感情も、或いは逆に恋愛的感情も、自我を起点としたものでなく、自我に巣食う悪魔的存在、悪魔的在り様に端を発している。その認識を得るためには、樹海を彷徨いながらも魂の奥深くに分け入っていかない限り、その正体を暴く事はできない。主管できない感情を自分とは違う別様の獣でも見るような内的客観性、即ちみ言葉の剣による分別を備えたものとなる。その感情を超えて、与える事愛する事を本質とした本来の自我こそ自分である、この魂であると悟り、感情を押し殺す事に躍起になることが問題ではなく、本来の魂から来る愛する意志を偽りの感情故に抹殺していることが問題なのだ。

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