2008年12月5日金曜日

キリストを考える

旧約聖書に目を通すと、人間の魂の道徳的在り様の低さを、幾らでも見出せる。神の命として町を焼き払い全ての民を根絶したり、兄弟間の殺し合いから近親相姦まで、ありとあらゆる不条理がまかり通っている。そういった在り様は新約に至るまで続いた。人類史を復活摂理から見るとそれぞれの時代区分に於いて復活された魂の成長段階は違うので、今の人間の魂の道徳的在り様と比べれば明らかに劣ってはいる。しかし、顕著な違いが見出されるのがイエス以降の魂の在り様だ。イエス以降、それまでには見出せなかった道徳的な衝動、許し、愛、救いと言った新たな魂の衝動を見ることができる。イエスが十字架に架かったことでその新たな内的在り様にそれぞれが眠りから醒め脱皮したように、ペテロを初めとする十二使徒や多くの弟子達にその在り様が伝播していった。その当時、ギリシア哲学はその論理性で最高点にある。今ですらその論理性はすべての宗教思想、哲学が超えることは無い。十字架によって眠りから醒めたクリスチャンと言われる内的在り様は急速に伝えられ、多くの人々に住まう様になる。論理性を全く持たないキリスト的在り様が、論理に長けた当時のローマや周辺に受け入れられていったのはどういう理由があったのか。何がそうさせたのか。そこに論理的理由は無い。後付で様々な学者がそれぞれに説明してはいるけれど、心を動かすものは無い。論理で説明できないものを、明らかに彼らは受け取ったのであり、イエスの語った言葉やその生き様を付した福音書を通して、その言葉に神霊聖霊が宿され、その言葉を受け取った者は神霊聖霊が受精したようにイエスの分霊としてクリスチャンとして生まれた。外的に見るなら、その言葉を仲介として生まれ変わったのだ。かつて無かった感情をもたらす尊くも清い聖なる雰囲気を持つ内的在り様として生まれ変わったのだ。歴史の中の聖賢聖者達に見るように、地上に於いて高められた内的在り様を、肉体を纏っている間に理解されることはそうない。肉体を脱いで霊的存在となった時、その高みに至った内的霊的在り様を多くの者達が受け取ることができた。今の時代、クリスチャンと自認する者は限られているとしても、キリスト教的文明、キリスト教的生活様式、キリスト教的内的在り様にしっかり浸透されている。魂の奥の奥を垣間見る事ができれば、人類に開示されたイエスの霊が誰にも備わっているのを見出せる。他の宗教指導者とは全く違う次元で、その在り様を宇宙と人類に開示し浸透されている。

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