2008年12月5日金曜日

今日の想い 27

イエスと弟子達の一連の時間的流れを見ながら、御父母様と祝福を与ったものとの状況を考察する事ができる。食口と自認する者達がどのように御父母様を受け入れているか。講論に目を通せば、かつてのどの宗教書にも見出せない、その論理性と表現性を持ってはいるが、我々の内どれだけの者がその内容に感化されてやってきたかと言うと、自分を含めて甚だ疑わしい。み言葉に触れ教会に触れているうちに引き寄せられてしまったと言うのが正直なところだろう。悩みの中にあって真実を求めた者も中にはいるだろう。自分もそのひとりとは思うが、別の宗教なり思想に触れていれば肌の合いそうなところに落ち着くだろうし、別にここで無ければならないと言うほどのものでも無かった様にも思う。ペテロが人を捕る漁師にしてあげようと言われてほいほい付いていったのと同じように、天国は三年でできると言われて付いてきた、誰も彼もそんなところだろう。明かなのは自分が求めた条件で来た道でなく、真の父母からくる条件でもって仮聖徒としての位置を与えられたと言う事だ。み言葉の意味するところ、真の父母の価値の本質が解らずに付いてきている。では我々が本当の意味で天の願い、真の父母の勝利された内容を相続できる日はいつなのか。聖霊降臨がなされたように竹でも割ったような在り様で堕落様相から一転して完成復活様相に様変わりする日を見るのはいつなのか。遅々とした成長の今の自分の現状を見る限り、み言葉の在り様に自分を高めていこうと思えば一度の人生では足りない。御父母様の備えられた自我、魂の在り様に皆がなれるとすれば、それはイエスが肉体を脱がれて霊的存在としてあまねく人々に下っていったような事柄がある時だと思う。それが肉体を脱がれた時か或いは2013年の事なのか解らない。天地をひっくり返すような出来事が起こるのは必然ではあるけれど、その時まで何をしたって同じだと言う感覚であれば、そのXDAYの出来事の真意を理解してはいない。イエス様は霊的救いという限定的な救援摂理に留まったが故に、あのようなペンテコステの在り様となった。しかし御父母様の使命は完全救済、霊肉共の救済である。であれば霊的現象のみならず肉的現象としてのペンテコステが起こる。必ず起こる。宇宙が生まれ変わり、地球が生まれ変わり、そして人間ひとりひとりが生まれ変わる。霊的在り様としてみ言葉実体に限りなく近づいていない限り、肉的ペンテコステに耐えられない。結局、訓読経も実践も、誰の為ではない自分の為、即ち完成復活への最後の準備を為している。内的霊的エネルギーを最大限投入しながら、そう時がない今の今を実りあるものとして歩んでいる。

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