2008年12月24日水曜日

今日の想い 34

地上界に於いて鉱物界植物界動物界人間界と位階が存在するように、霊界に於いても確実に位階が存在する。人間、堕落によって天使万物にも劣る存在に成り下がったが、天使であれ大天使であれ位置する霊的位階は、その場にあるべきことを約束されて、即ち自動的にその位階に立った存在である。それに対して人間は自由意志をもって位階を上り詰めていく事ができる存在なのだ。その意味で人間は責任分担を与えられた神様の子女として存在している。自由意志を所有する意味は、上り詰めていく事もできる反面、けだもの以下に転がり落ちる事もありうる。事実、自由意志をして精神の高みに向かう魂の在り様を捨て、安易な魅力に絆されて堕落してしまった。そして堕落様相からの復帰摂理の全ての路程に於いても、救いに至るかどうかは人間の自由意志に任されてきた。その結果が救世主を迎えるまでの気の遠くなるような路程であり、更に自由意志によって人類は救世主に対する不信を選ぶことで更なる二千年を待つ事になった。堕落した人間に取って神との直接的関係を持つ事はできない。神と一問一答できると言う者がいるなら、それは何か他の霊的存在で神ではない。神様と出会おうとするなら、神様までの位階を一段一段登りつめながら精神の高みを目指す必要がある。転がり落ちた堕落人間に取っては気の遠くなる話なのだ。しかし私達は今、奇跡を目の当たりにしている。どれほど精神修養をしても神に届く事は不可能な立場でありながら、神様を目の当たりにしている。しかも我々の次元に降りてくださり人間と同じように肉体を纏っておられる。同じ空間と同じ時間を過ごしている。我々は御父母様の中に神様を見ることができるのだ。神様の理想を、神様の痛みを、神様の心労を、神様の悲しみを、神様の喜びを、神様の愛を、神様の全てを見ることができる。御父母様を想うことが神様を想うことであり、御父母様に侍ることが神様に侍ることであり、御父母様の御前にこの身を供える事ができれば神様御自身に吸収され神様と混然一体となれる。生も死も、病みも老いも、貧も富も、それらは御父母様を想い侍り犠牲になることに何の支障も来たさない。もはや肉体にまつわる事柄は御父母様を前にしてどうでもいいほどに影を薄める。御父母様へ向かう事の感謝と喜びで全ては凌駕される。

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