2009年7月29日水曜日

訪問記 3

言葉に込められた心情は、言葉に閉じ込められたまま相手の内面に撒かれる。撒かれた心情の種は魂の耕されるのを待ち、内的環境圏が熱を帯びて暖かくなるのを待って芽を出す。投げかけた言葉が、打てば響くように直ぐにも影響を及ぼすこともあるけれど、良き種ほどしっかりと耕された土壌としての魂が要求され、それなりの期間もかかる。内面に深く深く沈んで行くことで、み言に込められた天の心情の芽が出、幹が高く太く育ち、枝を四方に広げながら、やがて愛の花が咲き乱れる様相を体験する。愛の花を咲かせる衝動を、御父母様に繋がり、神様に繋がった自分の心情として啓発される。み言の意味するところを自分なりに捉えようとするのでなく、み言を、み言の力を、そのまま受け入れることを成約聖徒は学ばなければならない。自分なりの思考やこの世的感情が含んだものを、意識もせずにみ言に沿うた良き言葉として相手や子供に投げかけている。しかし正しく受け入れたみ言なのかどうかは、子供を通して問われる。或る年齢に達した時、親なりに理解したみ言をそのまま子供にぶつけても、受け入れることはない。一通りオフィスの建物内を見せていただき、お礼の挨拶をして離れようとしたけれど、誘いに甘えて自宅に呼ばれ、ご馳走になった。同じテーブルでご婦人の手料理に箸をつけながら、御父母様が来られた時の様子やらいろいろと話してくださった。食事の後は南米でのスライドを見せていただいた。南米レダでの文字通りの開拓が進められた時のスナップ写真なのだが、説明される言葉の中に開拓の苦労もさることながら、その苦労を超える、その地への愛情やみ旨への誇りややり遂げた達成感やらが言葉の端々に滲み出ている。熱の篭った言葉を息子と二人で受けながら、み旨を歩みながらこれ程の情熱が込められた歩みとして、自分は子供に伝えているという自信はない。子供が、冷めたものや諦めたものを親の背中に見ているとしたら証にはならないだろう。息子に何か得るものがあればと誘った旅ではあったが、本当のところ、天の教えたい事柄は親としての自分に向けられていた。空が鳴り、夕立の大きな雨粒が落ち始めた。雨脚が強くなる中を外にまで出て、見えなくなるまで手を振りながら送っていただいた。

訪問記 2

人間は言葉を話し理解する動物だと言うことは出来る。しかし動物界に括られる存在ではなく、言葉を理解し話す存在が動物形態を取っているのが人間だ。人間存在は言葉の存在であり、動物に見る本能を超えて、即ち肉体の生死を超えて言葉の中に生きる存在なのだ。言葉に宿る霊的なものを自分の身体とする為に、使う言葉を選ぶだろうし神霊が宿る言葉を捜してもいる。兄弟に案内されて船着場辺りを散策した。アメリカの大西洋沿岸はアウターバンクが鎖状の島々となって連なり、挟まれた内海は運河となってフロリダまで延々と通っている。波のない静かな海面というのか川面は、朝の光が軽やかに踊り、岸辺の葦も船も、そして桟橋までも光り輝いている。光の中に佇みながら、自分の内面にまでもこの光が浸透されるよう呼吸を深くし肌を弛緩してみた。この触れる大気の中に光の中に、会長や兄弟達の迎える想いが感じられる。心地よい夏の朝の風を身体に受けながら、この地に住まう精霊達が微笑みかけながら迎えてくれる。別に何かを期待して来た訳でもない。何かを貰う為に来た訳でもない。兎に角挨拶をしたかったし来て会ったという事実が欲しかっただけだ。コーヒーの用意が出来たからと声をかけられオフィスに戻ると、会長に手招きされ会議室の大きなテーブルに息子と並んで腰を下ろした。店の様子など聞かれるままに応えていたけれど、話しは息子のことに及ぶ。二世としての姿勢であるとか信仰姿勢であるとかを口にされるのだろうと思ったが、内的事柄に関しては全く触れられなかった。確かにそう言った内容を息子が理解できるとも思わないが、以外にもこの世的能力や技術を得ることをしきりに強調される。自分が子に対するとき、今本人に無いものを愁いながら、或る意味責めながらこうあるべきだと言葉を吐き出しても、それは決して子の為にはならないだろう。それよりは会長の言葉に頷きながら、未来への展望を投げかける言葉の方が余程建設的なのだ。親としての焦りが言葉に代わり、それで子供を縛り付けていたのかも知れない。そういう気付きを今回の出会いで受け取った。内的な事柄に触れない言葉に、内的生命が込められていた。響きのある言葉を、息子は息子なりに受け取ったろう。彼なりにということが大切であって、彼なりに受け取った言葉こそ彼の中で大きくなっていく。

2009年7月27日月曜日

訪問記 1

言葉に想いを込める。込めた言葉を相手に贈る。受け取る言葉に込められたものを、相手が受け取る。言葉に包まれた私の想いを開いて受け取る。その言葉にどういう想いが込められているかで、相手を高めもし落しもする。活かしもし殺しもする。言葉に込めようとする想いがどれ程自分の中にあるだろうか。想いの強さが伝わる強さであれば、相手を思い遣れば遣るほど内的生命を強く与えるであろうし、或いは逆に相手を憎めば憎むほど内的霊的死へ自分も相手も引き擦り込む。子供に親の想いが伝わらないとするなら、想いとしてはまだまだ弱いのかも知れない。或る想いに駆られて、信仰の大先輩のおられる地へ息子と向かった。一つの大きな転機に自分も家族もある事を認識していて、どうしても会って挨拶したかった。営業の為の雑用を片付け、やっと出発できたのは夕方近かった。ちょうど仕事帰りのラッシュに出くわし、町を抜けるとひたすら南下して、近くの宿に着いた時は既に12時を回っていた。禁煙と指定しながらもタバコ臭い部屋を宛がわれたが、敢えて説明して変えてもらう気も起こらず、兎に角休んで明日に備えた。寝たような寝ないような夜を過ごし、明け方早く宿を出、ナビにも映らないその場所にやっと辿り着いた。広々と整地された土地が見渡せる。もっとボートが所狭しと並べられているのかと想像したが、船着場に大小あわせて5,6台、そしてパーキングに10台程度並んでいるだけだ。洗車をしておられた会長は手を差し出され、笑顔で私と息子を迎えて下さった。隣に息子がいなければ込み上げるものがあったかも知れない。誰よりも誰よりも尊敬して止まない、いつも見上げるばかりの大先輩を今目の前にして緊張していた。

2009年7月21日火曜日

霊界考察

地上世界に於いては、霊界に於ける法則がそのまま地上の法則とはならない。地上に於いては善を指向しながら善の行為が不幸となることもあり、悪の行為で幸福を味わうこともあり得る。しかし霊界に於いては内的価値や本質に従い、善はその善の程度に応じ、悪は悪の程度に応じて作用する以外ない。地上生活では、道徳的宗教的なものと、生活的物質的なものとの間に越えられない溝が存在する。しかしながら人間は霊人体と肉体の統一体として存在している以上、神様が主管する霊界法則に従えば、地上生活は犠牲的生活にならざるを得ないし、サタンが主管する地上界に従えば、内的霊的在り様は醜いものとなる。地上生活に於けるこの矛盾を感じない、心と体の闘いを覚えないものは、善を極めた聖人であるか、でなければ内的霊的感性が完全に鈍ったこの世的生活に埋没しきっている本能人間、より獣に近い人間ということになる。人間は地上に於いて、内的霊的価値や本質的なものをどれ程理解しどれ程受け取ったかで、霊界へ持ち込めるものは決まってくる。肉体を脱いでしばらくすると、この世の生活的物質的な事柄を先ず捨て去る必要があり、霊界への旅の途中で惑星を廻りながらその霊的存在達に魂の地上的事柄を委ねる必要がある。そして真に霊界中心位置へ向かえば、真の愛の密度が濃い光り輝く天国に入って行く訳だが、自分がどれ程真の愛を受け取ったかを問われ、真の愛の要素で築いたものしか持ち込むことはできない。偽りの影の部分は焼き払われる。自分の霊人体に於いて影の部分が多くをしめるなら霊人体としての体をなせず消滅せざるを得ない。しかし消滅できないのが自我存在であり、真の愛の光の届かない所、自分を焼き払われない場所(地獄)に留まらざるを得ない。天地開闢が地上人にとってどれ程の福の中の福であるか。内的霊的価値あるものを求めることが即、地上の幸せへの道へと一致する。善悪の程度に応じて地上作用し、善の実を実らせ悪の実は腐るという霊界法則と地上生の法則が一致する。

2009年7月20日月曜日

天の軍勢

自分の中に巣食う恐れこそ、当面の敵だろう。事或る毎に恐怖意識が頭をもたげる。身体を起こしてムクムクと大きくなる。大きくなって両腕を広げ、自分に襲い掛かる。脅しに掛かる相手や、不安や心配こそが、恐怖そのもののように思えるけれど、その実体は弱い自分が作り出した恐怖意識だ。誰でもない自分が作り出したものを、何処かから襲ってくるような認識に捕らわれているけれど、自分の意識の深いところで自分が無意識の内に作り出している存在だ。思考は実体化するものであるけれど、無意識下の思考、血族的因縁的思考が作り出した、自分が背負う負の因縁である。戦う相手は表面下の無意識圏の自分であり、その根源は神様に相反する悪魔存在の霊が介入している。そこを注視しメスを差込み霊的手術を施していく。万軍の王の位置として戴冠され、それが抽象的装飾的冠位としてではなく、文字通りの万軍の王として、万軍である霊の軍勢をその背後に見る必要がある。地上で闘いに明け暮れた軍勢の多くもまた、絶対善霊として御父母様の背後に陣取っているし、軍神と言われる火星存在、金星存在もいる。忘れてならないことは、意識的であれ無意識であれ、内的霊的闘いの日々であること。目に映るものが闘う相手の正体ではなく、内面に居座る悪魔存在、恐怖意識を煽る悪魔存在こそ戦う相手に違いない。深く祈祷し内面の奥深く進軍しながら神霊的光で分別し悪魔の正体を明確にする。エリコ城陥落の如く、鬨の大声と共に突撃し、一気呵成に成敗する。我々には確かに天の軍勢が背後に控えている。それ故に絶対に勝利する。御父母様の天の運勢圏を相続し、天の攻撃権を扶余されている。内面の宇宙からあらゆるサタン、悪魔存在を淘汰する。

2009年7月19日日曜日

今日の想い 95

暗闇の中、手探りで出口を探すような、そんな日々が続いている。店の事も、相対者のことも、子供のことも、、、。光の糸口が見つからず、手当たり次第闇雲に行動して見ても、混乱の度合いは増すばかりだ。自分の中に執着があるのだろうか。こうあるべきだという思い込みがあるのだろうか。その思いから開放されない自分が問題なのだろうか。飲み込んだものがストンと腹の底に落ちずに、胸の辺りでせき止められているような、そんな胸焼け状態。内的な胃が拒絶していると言う事なのだろう。内的霊的に消化できないと言う事なのだろう。執着を捨て、思い込みを捨て、、、そしてどうする?そして委ねる、、、委ねるとはどういうことだろう。消化できないものは吐き出すしかないだろう。天が取ることができる精誠条件を供えながら、自分の思いではなく、天の思いの通りに運んでもらうことが最善だろう。粗末な祭壇代わりの棚にみ言がずらりと整列している。光が内包されたそれらのみ言を開けば内面は照らされ、闇は消えるはずなのに、自分の中に光は届かない。幾重にも幾重にも何かに覆われて光は届かない。御父様の子であるなら、溢れる光で家庭を照らし、店を照らし、従業員を照らし、社会を照らすべきなのに、光の糸口さえ見出せない。真の愛が届かないところが地獄だという感覚が良く解る。息苦しささえ覚える今の状況が続くなら、生きて死の苦しみを味わい続けるだろう。副作用で痛みを覚える妻の足を摩ってやりたいが、自分の腕が重たくて届かない。荒んでくる子供を目の前にしながら、乾いた魂を潤す愛の言葉が見つからない。大きな気持ちで従業員を包んでやるべきなのに、口を開けば裁きの言葉がついて出る。余りの自分の不甲斐なさに落ち込む。申し訳ありません申し訳ありませんと、一晩中でも背中を曲げて小さいからだを揺さぶれば、何かが手を差し出してくれるだろうか。どんな暗闇にも光は届けられると信じ続けられるだろうか。

2009年7月17日金曜日

今日の想い 94

背負うた重荷が重たくて、助けを呼びたくても人は横を追い越していく。自分の弱さで打ち震えながら、佇む自分は押しのけられる。邪魔な存在として生を受けたことを、否定するでもなくじっと死を待つ。周りの誰もが恐くて、目立たないように息を潜める。何も持っていないから、執着も諦めることもわからない。感動もなく、怒りもなく、喜びもなく、声を上げて笑ったこともなく、孤独の中に埋もれる。夢、、、理想、、、尋ねられてもその意味すらわからなくて戸惑う。何に触発されたのか、ふと涙が流れる。意味もなく静かに泣いている自分に驚く。涙の暖かさが頬を伝う。涙に込められた暖かさを感じる。自分の涙で、自分が慰められる。自分が愛おしくなる。自分が自分に対して申し訳なく思う。それが自分に対してであっても為に生きることを知る。涙を裏切るまいとする。悲しいのに辛いのに、涙はどうして暖かいのかと思う。自分を傷つける時も、流れ出る血が暖かいことに気付く。血も汗も涙も暖かい。自分から流れ出るものは暖かい。自分の中に暖かいものが脈打っている。冷たい周囲に埋もれていれば、冷たくなって当然なのに。しかしそれに同化されないよう、自分の内面に暖かいものが流れ込んでいる。暖かい生きた自分を取り戻せと、暖かいものが流れ込んでくる。人の重荷を気にかけて上げると、その暖かさを人は優しさだと言う。人の弱さを気遣うと、その暖かさは慰めだと言う。あなたを大切な人として接すると、その暖かさを生きる強さに返る。あなたの味方となりあなたの為になりたいと言うと、その暖かさはあなたの勇気になる。暖かさを分け与えることで、暖かさの泉が湧き溢れる。

2009年7月16日木曜日

天一国

地上界のことを地上界のみの判断基準で測ることはもはや意味をなさない。地上界という結果の背後の原因を見ないならば、結果のみを見てその原因を無視することであり、地上界で起こりうる事柄、起こった歴史の事柄は影でしかない。万物の霊長と言われる人間ではあるけれど、霊界への正しい認識無しに、あらゆる万物は人間という存在を超えることは出来ない等という傲慢な態度を取るなら、虫けらと同類なのだ。いや、無知と煩わしい欲にまみれた分だけ虫けらよりも遥かに劣る。事実、植物や動物のそれぞれの種族には我々の意識圏よりは遥かに高次の意識基準を備えていたりする。それぞれの人間は自我意識を肉体に侵入させて活動しているけれど、植物にしろ動物にしろ地上の身体の中にその意識を下ろすのではなく、霊界の高次の世界にその種族としての意識、その魂を持っている。夢中で蜜を吸う蜂のその尻尾を引っ張り、尻尾が抜けて体から離れても、蜜蜂は蜜から口を離さない。その蜜蜂を見て馬鹿だと思う人間は馬鹿なのだ。蜜蜂種族は蜜蜂種族としての霊界に於ける、宇宙に於ける使命がある。花粉を運び蜜を集める作業に没頭させるその背後に、公的意識を本分として宇宙に於ける使命を全うする意志をその魂は持ち合わせている。そのひたすらさや一途さをその存在に感じ取り、頭を下げざるを得ないと思えなければならない。御父様が例に取られた蜜蜂のみならず、人間を除くあらゆる被造物はそれぞれの使命を受け為に生きる存在として、その高貴な魂の活動を展開している。人間は頭を低くして一つ一つの種族から教えを請わなければならない。人間としての為に生きる本分を捨て使命を失った堕落人間に取って食物を口にすることも息をすることさえも罪なのだ。口に入れるとき、息をするとき、取り入れる存在の、為に生きる精神を想い、せめてもの感謝の情を供えるのでなければ、口にすべきではないし生きるべきでもない。神様の創造理想から道を外した人間ではあるけれど、神様は人間を息子として娘として可愛くてしょうがないから、救いの摂理を尋ねてこられたのであり真の御父母様を送ってくださった。その深いご心情とそこから流れ来る真の愛を御父母様に見ずに何を見ようとしているのか。創造された宇宙様相は創造主の偉大性を疑うべくもないが、当の神様はあまりにもボロボロで消え入りそうな与え尽くした様相を御父母様に見ざるを得ない。統一の群れはそれを理解してこそその存在意義がある。我々の胸の中に汗と涙の在り様でしか表せない神様の恨が心情が疼いている。被造物それぞれの種族の魂が霊界にあるように、統一の群れの魂は御父母様の意識圏である天一国にある。

2009年7月15日水曜日

今日の想い 93

なるべく波風を立てないように穏やかに従業員には接するようにしてはいるが、閉めるところは閉めるべきであり、闘うべきは闘う。店の心配をせずに自分の取り分ばかりを言い張る者に、説明で納得させることは出来ない。納得できる説明が欲しいのではなく、取り分の増しのみを要求しているに過ぎない。アメリカのサービスはチップ制を取っているが、この仕組みは害がありすぎる。自分が投入した内容に応じた結果としての金額であれば、奉仕投入することを覚えるだろうけれど、結果としての金額はこなした客の頭数だという認識に凝り固まり、サービスの良し悪しはどうでもよくなる。従業員の時間推移によるパターンを見ていて、殆どのサーバーは最初はサービス向上への意識があるが、或る程度の慣れが見て取れると、サービスとは名ばかりの等閑な接客となる。サーバーではなく、唯のオーダー取りと運び屋に堕ちてしまっている。堕ちた以上、サーバー扱いする気はない。天の店に利己主義に汚染された堕人間はいるべきではない。そう言う意味で闘う。徹底的に闘う。相手が訴えてこようがどうしようが闘う。天の店で働くことの意味を知るべきであり、霊界の存在を知るべきなのだ。霊界がどちらに味方するかはっきりさせるべきなのだ。店長としての権威を示すべきであり、それを認めないのであればそれ相応の判断を下すべきである。一から十まで穏やかで、下手に下手に接して従業員が付け上がるなら、自分は天の権威を落としたことになるだろう。

2009年7月14日火曜日

どう自分の位置を認識するか

過去があり、現在があり、そして未来がある。祖先があり、自分があり、そして後孫がある。過去の結果が現在であると共に、現在は未来の原因でもある。祖先の結果が自分であると共に、自分は後孫の原因でもある。縦的事柄が主体であり横的事柄が対象であるように、縦的時間軸を生きてこそ横的空間はその広がりを見せる。祖先から自分、自分から後孫という生の流れの意味をどのように捉えるかで、自分を横的に展開していく人生は違ったものとなる。隣の誰かの人生を羨んだり自分の方がまだましだと満足したりするのは、縦的な自分の位置があって横的な人生の在り様が決められるという認識にかけている為に、そう言った不満感情や比較意識が湧いてくる。血統という代々の流れの中に、自分という存在がくじでも当たったように、背中をポンと押されて流れに組み込まれるような感覚があって、自分の境遇をついているとかいないとか思うのかも知れないが、それは人生に対する幼稚な認識と言わざるを得ない。事実は、結果としての自分であり、過去に連なる全ての先祖の結実体であって、不満感情や比較意識に軽々しく踊らされるならそれ自体が結果としての自分そのものなのだ。生まれて死ぬまでを自分と区切るから無理なのであって、祖先も自分であり後孫も自分だと言える認識感覚を理解しなければならない。今生の記憶のみを積み重ねているようで、意識圏を越えた所に過去を生きた自分の記憶があり、後孫の中に自分は生き続ける。自分は死ぬと霊界生活を送るようになるから、その認識はおかしいと思うかも知れないが、霊界に生きることと後孫の中に自分が生きることとは唯物的、物理的な判断だと矛盾するが、霊的には全く矛盾しない。男性は縦的であり女性は横的だ。家庭に於いて夫は縦的時間軸を生きることを主体にすべきであり、妻は対象として夫と一つになることで横的空間を家庭として展開していく。私の妻は自分の過去の些細な事柄を一つ一つ覚えているし、私が過去にああしたこうしたと幾らでもまくし立てる。子供の小さい時の出来事を私に思い出させようとするが、私は子供の現在の事以外は過去はすっぽり記憶が抜け落ちていたりする。そのように女性はこの世でのあらゆる記憶や現実そのものを生きているが、男としての自分は大きく言うと歴史を生きている。自分を超える過去に為し得なかったものを今為そうとし、自分を超える未来に繋げるものを残そうと行動する。夫が縦的に立たない限り、また妻がその夫と一つにならない限り、家庭として縦的な位置も立たなければ横的な展開もなしえない。

2009年7月13日月曜日

今日の想い 92

聖日には教会に行くようにという指示が出されているから出来るだけ足を運ぶようにしているけれど、兄弟姉妹の社交場ではあるのかも知れないが、神霊により引きあげられる場と言うほどでもないし逆にこちらが誰かの心霊を引き上げる訳でもない。正直、アメリカで説教を聞いてその内容が内面に入って来たことが何度あったろうか。私の相対する心霊基準が低くてかみ合わないのかも知れないし、日本語のみ言で自分の内面様相が組み立てられ、英語のみ言を中々受け付けないのかも知れない。確かに、トゥルーペアレンツと言う響きと真の御父母様という響きは、自分に取っては共鳴度合いが明らかに違う。更に対外的なことを意識してそうなのか、ゴッドと言う言葉は頻繁に用いられるけれど、それぞれの家庭や兄弟の日々の事柄や内面様相に、御父母様が直接的に関わった生活をしていると思われる雰囲気も匂いも説教の中には醸し出されない。すばらしい偉大な師としての御父様であるけれど、情が行き交う、我々に対する親としての御父様、御母様だという感情が見出せない。一生懸命神様との繋がりを持とうとしているのは認めるとしても、生きた神様を戴いているのにも関わらず、生活感情に直接関わる御父母様に関心が向いたり、御父母様に対する情が啓発されたりしないのだろうか。捉え所のない空想的神様を思い描き、空(くう)を見つめるクリスチャン基準の兄弟姉妹に落ち着き、敢えてそうなのか良く解っていないのか親としての御父母様に侍り慕う食口の領域には入ってこない。親子の情愛が薄いウェスタン特有の家族の在り様がそうさせるのかも知れないが、本来ならその辺の教育を父の国母の国としてすべきなのだろう。ある時は切実な心情をとくとくと説き、ある時は親の怒りを爆発させ、そしてある時は傷ついた子をかき抱くべく慰める、そんな密度の濃い情感溢れる教会の場となるべきなのだ。今日の礼拝もギターを爪弾き、軽い歌を皆で口ずさむ。先回、ニューヨークで怒鳴られ涙を流され、我々を揺さぶり起こそうとされる御父様を兄弟達はどう受け取ったのだろうか。楽しそうに手拍子を皆が打つのに自分も合わせたが、これは違うだろうという思いがどうしても抜け切れなかった。

2009年7月11日土曜日

洪水審判

長い人類歴史を辿りながら、節目節目に於いて人類は選別されてきた。私と言う人間存在があり、周囲に活動する人間存在も、幾度にも渡ってふるいにかけられ選別されて残ってきた、いわば選民中の選民であると言える。自分の先祖を遥か彼方に辿っていけば、必ず人類始祖に辿り着き、それは神様から発している。淘汰され続けてきた人類歴史にその節目節目を見ることができるように、後天開闢時代を開いて下さった今と言う時も、選別されるべき大きな節目を迎えている。それは人類史上かつて無いほどの規模で、洪水審判によってアトランティス大陸が海中に没し崩壊したように、私達は今恐るべき道徳的混乱という霊の洪水の審判を受けて崩壊しようとしている。霊界と地上界の境が取り払われ、地獄の底が抜け、善霊も悪霊も雪崩を打って地上に押し寄せている。それはまさしく、霊の洪水審判と言えるものだ。民主主義社会も自由主義経済もその秩序を維持しきれず、道徳、文化は著しく荒廃し、極々少数の精神的原則を受け入れた人々のみが、利己主義をとことん煽る悪霊による自己破壊から逃れることができる。為に生きる精神的原則は、み言を受肉し真の父母に侍る人々こそその原則を受け入れている。言葉が知識欲を満たすのみであり、地上天国が外的安楽という自己欲を満たすのみであれば、み言も御父母様も利己主義の方便として使っているに過ぎない。御父様の生き様の本質、為に生き、愛に生き、結果として犠牲的在り様になるその生き様の本質を相続する者となる。物的洪水であれば山の頂に避難するものだけれど、霊の洪水は頭を低くして何処までも何処までも謙虚に下っていった者こそ、逃れることができる。

2009年7月10日金曜日

親馬鹿

久々にカウンターに立って活気付いたけれども、舞い上がるほどに高揚したのには他の理由がある。横で息子が包丁を握っている。切っ先を私に向けるなら別の意味で高揚しただろうけれど、勿論そんな生臭い事ではなくて新鮮な食材に包丁を振るい、私の指示を受けながら客のオーダーをこなしている。今まで、こんな場面をどれ程思い描き、何度夢見たか知れない。それが現実となった状況を今の今経験している。他人には余りにも大げさで白々しいかも知れないが、今までの、決して真っ直ぐではない親子の経緯からすれば奇跡にも近い事柄なのだ。今年の夏こそは何処でもいいから働き口を見つけて家計を助けれくれるように言い伝えたが、真剣に探す気配もなく7月に入ってしまった。父親の口から責めれば余計に難しくなる事は解っているので、母親の口からやんわりとプッシュしていたが、それでも昨日などは母の一言が重いらしく、塞ぎこんでいる様子だった。年齢的にそうなのか親から受けたものなのか、神経が非常に細やかで傷つきやすい面がある。どう接していいものか事或る毎に悩んでいたが、昨夜もひとしきり思いを巡らしながらそのまま朝を迎えた。そして今朝、私は霊界に押されるようにしてパソコンに向かっている息子に声をかけた。行こう。唯この一言をかけると息子は頷き立ち上がった。無言のまま車に乗り、店に着くとエプロンと衛生ハットを渡した。数年前、面倒見のいい兄弟の店に頼んで、嫌がる子供を無理やり引き連れて働きにならない働きをさせたことがある。親子の間でそれが引っ掛かっていたりもする。小さい頃、可愛いだけで親としての子に対する教育がなおざりだったからそうなってしまった訳で、子供の内面の責任は100%親にある。その苦しい思いを察してくれたのか、兎に角従ってくれたことが嬉しかった。勿論全てが解決した訳でもなく、一歩を踏み出したに過ぎないが、それでも私の家庭に取っては大きな一歩だった。二人でカウンターに立ち、私の右隣で働いた息子なりの動きや一生懸命さを、私の右肩や右腕がしっかりと覚えていて、その興奮と熱さで今晩も眠れないのだろう。親は子に対しては本当に馬鹿だと思う。馬鹿だから親なのだ。神様もそうであり、御父母様も恐らくそうだ。我々は本当の馬鹿の集まりなのに、どうしようもない存在であるのに、御父様は我々を捨てることができない。

2009年7月9日木曜日

死生観について

そう遠くない死を告げられた病人であれ死刑囚であれ、死が現実味を帯びると生の密度は非常に濃くなる。朝、目を開けると当然の様に外界が開けていて、当たり前すぎて普通は何の感情も伴わない。しかし死が意識されると、死の対比で生を味わうわけだから、生きて味わう外界の経験を死の境を越えて持ち込もうとする為に、内面への経験の刻み込みは俄然強く深いものとなる。内面への意識が強く喚起されることで、死後に対する無知や恐怖感の克服が為されていく。死が迫る事を受け入れる事と、死んで後も自分の存在が或ると認めることとは対になっている。無神論者であれバリバリの共産主義者であれ、死を覚悟した者は、霊界は信じなくても何かの中で自分は生き続ける事を信じている。死ねば全ては無となる、と言い切れる者は、彼に取って死はまだ現実味を帯びてはいない。兄弟は神様を信じ霊界を信じてはいるけれど、或る意味容易な信じ方であって、死に対する意識も死後は皆無であると信じる者達と同じほどに軽い。み言を知り、御父母様を受け入れ、祝福を授かったことで死後に対する安心感を覚え、恐怖感を含めて死への切実さや感情が薄い為、結果として生への切実さや感情も薄い。死生への姿勢が緩んだ、み言を知り御父母様を受け入れた無宗教者となっている兄弟が結構多い。深い信仰生活を歩む為には死生観を突き詰める事は必要条件であり、それでこそ密度の濃い生を生きることができる。緩慢な生を自覚するなら、指の一本や二本は切るくらいのショックを受けてこそ目が覚める。御父様がどれ程この地上におられるか、そう遠くないその日を迎えるのは確かだけれど、御父様の後追いをするくらいの覚悟を持たない限り、御父母様に侍り共に生きたと言える自分にはなれない。

2009年7月8日水曜日

今日の想い 91

万死に値する罪を犯し続けながら、のうのうと生き続ける。罪を償い蕩減する為に生を受けながら、逆に罪を加算するなら生まれてこなかった方が良かったと言う事になる。真の父母に出会えた事は祝福意外の何ものでもないが、悲しいかなその祝福の意味が解ってはいない。受けた事の意味を解ろうとせず、もらえるものは何でももらおうとの思いであれば、我々と乞食と何処が違うのだろうか。乞食の寄せ集めに食べさせ、語り、任せ、そして報告を受けられる。乞食が乞食であるなら与えれば与えるほど更に求めるものだけれども、今までの歩みを見る限り我々はまさしくそう言った類の群れに違いない。乞食として集まったとしても、孝子、孝女と生まれ変わって父母を証し出来れば、御父母様の面子も立ち良き種から良き実を結ぶだろうけれど、厄介者以外の何物でもなければ御父母様に取っては取りすがる悪霊に等しいかもしれない。時にその心情を吐露され、時にその不甲斐なさに激怒される。それすらも砂に水を撒き続けるようなもので、その想いを受け取ることができずに口を開けたまま立ち尽くす。御父様の心情次元に程遠い我々が、御父様の願いに応える事ができるとするなら、この生命を賭するしかないのだろう。首を綺麗に洗って差し出す決意をするしかないのだろう。信仰もなく実力もなく差し出す何ものもない私は、この生命この肉体すら本来与えられ、使う事を許されてまとっている訳だけれども、お借りしたものを返す事でしか捧げられるものは何も無い。自分の手からでなく、誰かの手で鉄槌を振り下ろされればそれをありがたく思い、そうして殉教した聖徒達の心情次元にだけでも精一杯届くことができるように、その覚悟だけは固めていける我々でありたい。2013,1,13.摂理完遂の日、神と悪魔すみ分けの日、XDAYでありD-DAY、そして成約聖徒にとっては結果責任を取る日であり裁きの日。

2009年7月7日火曜日

今日の想い 90

私の子もそうであるけれど、この世の中にはありとあらゆる魅惑的な事柄がひしめいていて、内的霊的な事柄に関心は向かない。どれ程内面生活の大切さを訴えても、見て聞いて五感に訴えかけてくるものの方への意識ばかりが増し加わり、内的霊的事柄に対する意識は芽生えさえしない。どれ程華やかな生活を送っているように見えても、一人一人の内面様相を見れば決して幸福な人生ではない事はわかりきっていても、そこまで深く追求し分け入ろうとはせず、表面的な華やかさや楽しさのみが目に付きそれが全ての様に思えるらしい。外的繁栄の負の部分、影の部分に光は当てられず、砂上の楼閣の幻に魔術をかけられた様に、この世的生活の在り様に疑問すら覚えない。アメリカに関わらず現代社会の大きな欠落の一つは、死に対する実感のないことだろう。経済不安の中にあっても、口に入れる物に事欠く状況ではないので、食べる物がなくなるという不安は想像すらつかない。現実として戦争の最中に国があり、戦場では死の臭いが広がっているにも関わらず、その場に立つ想像力は皆無と言っていい。自分の周辺で人の死を見ることもなく、家族関係すら希薄であれば、自分が良くも悪くも家族の中にどっぷり浸かっていた状況で、その中での肉親の死ほどの痛みも感情も味わう事はないのだろう。親が患ってもさして動揺するでもなく、手術後の生きているのか死んでいるのかさえ解らない、口に管を押し込まれ十数本のコードに繋がれた状況を目にしても涙を流すわけでもない。自分が親に対する情と、子供が自分に対する情のこの違いはいったい何なのだろう。このアメリカ社会の空気がそのようにさせたのか、それとも自分の子に対する情愛の欠如がこの結果なのか、恐らく後者なのだろう。内的霊的な価値観が外的なものの影響力を凌駕し、親の熱い想いが子に届き、真の父母から戴いた尊い真の血統、真の愛、真の生命を実らす存在であって欲しい。現代社会が築き上げてきた自然科学力、経済力、国力、あらゆる社会システムが行き詰まり、神様と真の父母の権能がそれらに変わって台頭される、その神の王国時代が目の前に開けている。そこに視点を移し、自分ができる精誠の限りを尽くす事のみに没頭すればいい。後の審判は神様に委ねるしかない。

2009年7月6日月曜日

今日の想い 89

いつものように起き、いつものように一日が始まる。いつものように出勤して、さして目新しい事柄が起きるわけでも着手するわけでもなく時間は過ぎていく。当然の事のように何の感情もなく食事を三度三度摂りながら毎日が繰り返されていく。いや繰り返されているように思える。全く新しい新鮮な一日が、朝目を開けると与えられてはいるけれども、毎日の行動習慣に内的な活動が支配されてしまい、何の内的感動も内的経験も、内的創造や内的悟りも得ることが出来ずに一日が終る。神様を信じみ言に沿って歩んでいるように思えたとしても、所詮外的なものが中心であり、外的なものを主体として内的なものはそれに付随するものぐらいの感覚でしかない。心が主体となって心と体が一体となり、縦的な心と横的な体が自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を送ると言われても、その意味すら解らずに相変わらず体が主体であり外的なものが中心となって生活している。信仰を立てているつもりでいながらも外的なものに取りすがりながら生きることで、献金だ実績だと言われれば所詮願われるのは外的な事柄なのだと、歪んだ理解と歪んだ信仰を備える事になる。先祖を解怨するにも結局はお金なのだ、救いもお金であり天国に入るのも金次第だと割り切り自分に納得させるなら、その人はみ言との出会い、真の父母との出会いを間違えたままでいる。悪人なのか善人なのかその人の身体形態から判断できないように、献金行為にしろみ旨と思える行動にしろ、精誠を込められた行為であるのかどうかは行為自体では判断できない。所詮金だと言う思いがそこにあるなら献金すればするほど欺瞞を積み重ね欺瞞の塔を築き上げていることになる。霊的なことを信じる人はたくさんいる。しかし心霊現象として現れるような外界に作用する意味で信じている訳で、自分の内面に呼応する霊的事柄として霊界にも生きる自分であると言える人は僅かである。心が主体であり、内的なものが中心だと言う意味が解った者は、必然的に自分に関わる霊界を感知せずにはいられない。今日一日の中に溢れんばかりの内的霊的経験という宝が鏤められている。経験を宝として受け取る者は天国生活の断片の一つ一つを受け取っている。

2009年7月4日土曜日

今日の想い 88

自我が確立されて定着している自分にはなっていない。自分特有の感情発動の癖や思考パターンが染み付いている。それらのひとつひとつが自分の霊的背後に原因を持っている。全ての霊的背後関係を原因として今の自分を生きている。それは決して本当の意味で生きているとは言えない。本来の自我が押しやられ、拘束され、遮られる事なく自我から自由の光を放つ人間存在となってはいない。何かに憑かれ、何かの奴隷となって願わない地上生を送っている。開放された自我を持つ人間の在り様がどんなものか、誰も知らなかった。神様さえも経験した事はない。しかし真の父母が真の父母として勝利された事で、自我が開放釈放圏で余すことなく光を放つ。真の父母から解き放たれる光こそ人類史上かつて経験のない光様相をそこに見ることができる。真の光の実体は真の愛にある。真の父母から放たれる真の愛を受け取る時、自分が認識する光の概念を覆す光を受け取るべきなのだ。光の概念が変わり、愛の概念が変わる。今まで認識する言葉の全ての概念は死亡圏内での概念であり、死んだ概念なのだ。しかし活きた言葉、ロゴスがもたらす概念を我々は受け取ることができる。御父様の言葉は死亡圏の言葉概念で理解する事はできない。み言を活きた言葉として受け取ることでしか、生命圏の言葉概念は形成されない。生命圏の言葉は活きて自分の内面に働きかける。熱いものが大きくなり止める事が出来ない衝動となって噴出す。熱い熱い太陽存在としての心情が、自分を超え家庭を超え、為に生きたい熱い衝動となって燃え盛り爆発する。笑うに空しく泣くにも実感のなかった他人事の自分の在り様が、生きた言葉、真の父母のみ言で始めて生きることができ、初めて魂が躍動する。