2009年7月29日水曜日

訪問記 2

人間は言葉を話し理解する動物だと言うことは出来る。しかし動物界に括られる存在ではなく、言葉を理解し話す存在が動物形態を取っているのが人間だ。人間存在は言葉の存在であり、動物に見る本能を超えて、即ち肉体の生死を超えて言葉の中に生きる存在なのだ。言葉に宿る霊的なものを自分の身体とする為に、使う言葉を選ぶだろうし神霊が宿る言葉を捜してもいる。兄弟に案内されて船着場辺りを散策した。アメリカの大西洋沿岸はアウターバンクが鎖状の島々となって連なり、挟まれた内海は運河となってフロリダまで延々と通っている。波のない静かな海面というのか川面は、朝の光が軽やかに踊り、岸辺の葦も船も、そして桟橋までも光り輝いている。光の中に佇みながら、自分の内面にまでもこの光が浸透されるよう呼吸を深くし肌を弛緩してみた。この触れる大気の中に光の中に、会長や兄弟達の迎える想いが感じられる。心地よい夏の朝の風を身体に受けながら、この地に住まう精霊達が微笑みかけながら迎えてくれる。別に何かを期待して来た訳でもない。何かを貰う為に来た訳でもない。兎に角挨拶をしたかったし来て会ったという事実が欲しかっただけだ。コーヒーの用意が出来たからと声をかけられオフィスに戻ると、会長に手招きされ会議室の大きなテーブルに息子と並んで腰を下ろした。店の様子など聞かれるままに応えていたけれど、話しは息子のことに及ぶ。二世としての姿勢であるとか信仰姿勢であるとかを口にされるのだろうと思ったが、内的事柄に関しては全く触れられなかった。確かにそう言った内容を息子が理解できるとも思わないが、以外にもこの世的能力や技術を得ることをしきりに強調される。自分が子に対するとき、今本人に無いものを愁いながら、或る意味責めながらこうあるべきだと言葉を吐き出しても、それは決して子の為にはならないだろう。それよりは会長の言葉に頷きながら、未来への展望を投げかける言葉の方が余程建設的なのだ。親としての焦りが言葉に代わり、それで子供を縛り付けていたのかも知れない。そういう気付きを今回の出会いで受け取った。内的な事柄に触れない言葉に、内的生命が込められていた。響きのある言葉を、息子は息子なりに受け取ったろう。彼なりにということが大切であって、彼なりに受け取った言葉こそ彼の中で大きくなっていく。

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