2009年7月14日火曜日

どう自分の位置を認識するか

過去があり、現在があり、そして未来がある。祖先があり、自分があり、そして後孫がある。過去の結果が現在であると共に、現在は未来の原因でもある。祖先の結果が自分であると共に、自分は後孫の原因でもある。縦的事柄が主体であり横的事柄が対象であるように、縦的時間軸を生きてこそ横的空間はその広がりを見せる。祖先から自分、自分から後孫という生の流れの意味をどのように捉えるかで、自分を横的に展開していく人生は違ったものとなる。隣の誰かの人生を羨んだり自分の方がまだましだと満足したりするのは、縦的な自分の位置があって横的な人生の在り様が決められるという認識にかけている為に、そう言った不満感情や比較意識が湧いてくる。血統という代々の流れの中に、自分という存在がくじでも当たったように、背中をポンと押されて流れに組み込まれるような感覚があって、自分の境遇をついているとかいないとか思うのかも知れないが、それは人生に対する幼稚な認識と言わざるを得ない。事実は、結果としての自分であり、過去に連なる全ての先祖の結実体であって、不満感情や比較意識に軽々しく踊らされるならそれ自体が結果としての自分そのものなのだ。生まれて死ぬまでを自分と区切るから無理なのであって、祖先も自分であり後孫も自分だと言える認識感覚を理解しなければならない。今生の記憶のみを積み重ねているようで、意識圏を越えた所に過去を生きた自分の記憶があり、後孫の中に自分は生き続ける。自分は死ぬと霊界生活を送るようになるから、その認識はおかしいと思うかも知れないが、霊界に生きることと後孫の中に自分が生きることとは唯物的、物理的な判断だと矛盾するが、霊的には全く矛盾しない。男性は縦的であり女性は横的だ。家庭に於いて夫は縦的時間軸を生きることを主体にすべきであり、妻は対象として夫と一つになることで横的空間を家庭として展開していく。私の妻は自分の過去の些細な事柄を一つ一つ覚えているし、私が過去にああしたこうしたと幾らでもまくし立てる。子供の小さい時の出来事を私に思い出させようとするが、私は子供の現在の事以外は過去はすっぽり記憶が抜け落ちていたりする。そのように女性はこの世でのあらゆる記憶や現実そのものを生きているが、男としての自分は大きく言うと歴史を生きている。自分を超える過去に為し得なかったものを今為そうとし、自分を超える未来に繋げるものを残そうと行動する。夫が縦的に立たない限り、また妻がその夫と一つにならない限り、家庭として縦的な位置も立たなければ横的な展開もなしえない。

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