2009年7月6日月曜日

今日の想い 89

いつものように起き、いつものように一日が始まる。いつものように出勤して、さして目新しい事柄が起きるわけでも着手するわけでもなく時間は過ぎていく。当然の事のように何の感情もなく食事を三度三度摂りながら毎日が繰り返されていく。いや繰り返されているように思える。全く新しい新鮮な一日が、朝目を開けると与えられてはいるけれども、毎日の行動習慣に内的な活動が支配されてしまい、何の内的感動も内的経験も、内的創造や内的悟りも得ることが出来ずに一日が終る。神様を信じみ言に沿って歩んでいるように思えたとしても、所詮外的なものが中心であり、外的なものを主体として内的なものはそれに付随するものぐらいの感覚でしかない。心が主体となって心と体が一体となり、縦的な心と横的な体が自分となって、一心、一体、一念、一和の人生を送ると言われても、その意味すら解らずに相変わらず体が主体であり外的なものが中心となって生活している。信仰を立てているつもりでいながらも外的なものに取りすがりながら生きることで、献金だ実績だと言われれば所詮願われるのは外的な事柄なのだと、歪んだ理解と歪んだ信仰を備える事になる。先祖を解怨するにも結局はお金なのだ、救いもお金であり天国に入るのも金次第だと割り切り自分に納得させるなら、その人はみ言との出会い、真の父母との出会いを間違えたままでいる。悪人なのか善人なのかその人の身体形態から判断できないように、献金行為にしろみ旨と思える行動にしろ、精誠を込められた行為であるのかどうかは行為自体では判断できない。所詮金だと言う思いがそこにあるなら献金すればするほど欺瞞を積み重ね欺瞞の塔を築き上げていることになる。霊的なことを信じる人はたくさんいる。しかし心霊現象として現れるような外界に作用する意味で信じている訳で、自分の内面に呼応する霊的事柄として霊界にも生きる自分であると言える人は僅かである。心が主体であり、内的なものが中心だと言う意味が解った者は、必然的に自分に関わる霊界を感知せずにはいられない。今日一日の中に溢れんばかりの内的霊的経験という宝が鏤められている。経験を宝として受け取る者は天国生活の断片の一つ一つを受け取っている。

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