2009年7月13日月曜日

今日の想い 92

聖日には教会に行くようにという指示が出されているから出来るだけ足を運ぶようにしているけれど、兄弟姉妹の社交場ではあるのかも知れないが、神霊により引きあげられる場と言うほどでもないし逆にこちらが誰かの心霊を引き上げる訳でもない。正直、アメリカで説教を聞いてその内容が内面に入って来たことが何度あったろうか。私の相対する心霊基準が低くてかみ合わないのかも知れないし、日本語のみ言で自分の内面様相が組み立てられ、英語のみ言を中々受け付けないのかも知れない。確かに、トゥルーペアレンツと言う響きと真の御父母様という響きは、自分に取っては共鳴度合いが明らかに違う。更に対外的なことを意識してそうなのか、ゴッドと言う言葉は頻繁に用いられるけれど、それぞれの家庭や兄弟の日々の事柄や内面様相に、御父母様が直接的に関わった生活をしていると思われる雰囲気も匂いも説教の中には醸し出されない。すばらしい偉大な師としての御父様であるけれど、情が行き交う、我々に対する親としての御父様、御母様だという感情が見出せない。一生懸命神様との繋がりを持とうとしているのは認めるとしても、生きた神様を戴いているのにも関わらず、生活感情に直接関わる御父母様に関心が向いたり、御父母様に対する情が啓発されたりしないのだろうか。捉え所のない空想的神様を思い描き、空(くう)を見つめるクリスチャン基準の兄弟姉妹に落ち着き、敢えてそうなのか良く解っていないのか親としての御父母様に侍り慕う食口の領域には入ってこない。親子の情愛が薄いウェスタン特有の家族の在り様がそうさせるのかも知れないが、本来ならその辺の教育を父の国母の国としてすべきなのだろう。ある時は切実な心情をとくとくと説き、ある時は親の怒りを爆発させ、そしてある時は傷ついた子をかき抱くべく慰める、そんな密度の濃い情感溢れる教会の場となるべきなのだ。今日の礼拝もギターを爪弾き、軽い歌を皆で口ずさむ。先回、ニューヨークで怒鳴られ涙を流され、我々を揺さぶり起こそうとされる御父様を兄弟達はどう受け取ったのだろうか。楽しそうに手拍子を皆が打つのに自分も合わせたが、これは違うだろうという思いがどうしても抜け切れなかった。

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