2009年7月9日木曜日

死生観について

そう遠くない死を告げられた病人であれ死刑囚であれ、死が現実味を帯びると生の密度は非常に濃くなる。朝、目を開けると当然の様に外界が開けていて、当たり前すぎて普通は何の感情も伴わない。しかし死が意識されると、死の対比で生を味わうわけだから、生きて味わう外界の経験を死の境を越えて持ち込もうとする為に、内面への経験の刻み込みは俄然強く深いものとなる。内面への意識が強く喚起されることで、死後に対する無知や恐怖感の克服が為されていく。死が迫る事を受け入れる事と、死んで後も自分の存在が或ると認めることとは対になっている。無神論者であれバリバリの共産主義者であれ、死を覚悟した者は、霊界は信じなくても何かの中で自分は生き続ける事を信じている。死ねば全ては無となる、と言い切れる者は、彼に取って死はまだ現実味を帯びてはいない。兄弟は神様を信じ霊界を信じてはいるけれど、或る意味容易な信じ方であって、死に対する意識も死後は皆無であると信じる者達と同じほどに軽い。み言を知り、御父母様を受け入れ、祝福を授かったことで死後に対する安心感を覚え、恐怖感を含めて死への切実さや感情が薄い為、結果として生への切実さや感情も薄い。死生への姿勢が緩んだ、み言を知り御父母様を受け入れた無宗教者となっている兄弟が結構多い。深い信仰生活を歩む為には死生観を突き詰める事は必要条件であり、それでこそ密度の濃い生を生きることができる。緩慢な生を自覚するなら、指の一本や二本は切るくらいのショックを受けてこそ目が覚める。御父様がどれ程この地上におられるか、そう遠くないその日を迎えるのは確かだけれど、御父様の後追いをするくらいの覚悟を持たない限り、御父母様に侍り共に生きたと言える自分にはなれない。

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