2009年7月29日水曜日

訪問記 3

言葉に込められた心情は、言葉に閉じ込められたまま相手の内面に撒かれる。撒かれた心情の種は魂の耕されるのを待ち、内的環境圏が熱を帯びて暖かくなるのを待って芽を出す。投げかけた言葉が、打てば響くように直ぐにも影響を及ぼすこともあるけれど、良き種ほどしっかりと耕された土壌としての魂が要求され、それなりの期間もかかる。内面に深く深く沈んで行くことで、み言に込められた天の心情の芽が出、幹が高く太く育ち、枝を四方に広げながら、やがて愛の花が咲き乱れる様相を体験する。愛の花を咲かせる衝動を、御父母様に繋がり、神様に繋がった自分の心情として啓発される。み言の意味するところを自分なりに捉えようとするのでなく、み言を、み言の力を、そのまま受け入れることを成約聖徒は学ばなければならない。自分なりの思考やこの世的感情が含んだものを、意識もせずにみ言に沿うた良き言葉として相手や子供に投げかけている。しかし正しく受け入れたみ言なのかどうかは、子供を通して問われる。或る年齢に達した時、親なりに理解したみ言をそのまま子供にぶつけても、受け入れることはない。一通りオフィスの建物内を見せていただき、お礼の挨拶をして離れようとしたけれど、誘いに甘えて自宅に呼ばれ、ご馳走になった。同じテーブルでご婦人の手料理に箸をつけながら、御父母様が来られた時の様子やらいろいろと話してくださった。食事の後は南米でのスライドを見せていただいた。南米レダでの文字通りの開拓が進められた時のスナップ写真なのだが、説明される言葉の中に開拓の苦労もさることながら、その苦労を超える、その地への愛情やみ旨への誇りややり遂げた達成感やらが言葉の端々に滲み出ている。熱の篭った言葉を息子と二人で受けながら、み旨を歩みながらこれ程の情熱が込められた歩みとして、自分は子供に伝えているという自信はない。子供が、冷めたものや諦めたものを親の背中に見ているとしたら証にはならないだろう。息子に何か得るものがあればと誘った旅ではあったが、本当のところ、天の教えたい事柄は親としての自分に向けられていた。空が鳴り、夕立の大きな雨粒が落ち始めた。雨脚が強くなる中を外にまで出て、見えなくなるまで手を振りながら送っていただいた。

0 件のコメント: