2009年12月12日土曜日

私の故郷

一年ぶりの故郷は更に寂しさを増していた。彩を失った裏山や刈尾山、耕作を放棄され荒れ放題の田畑、もともと家屋の少ない集落でありながら空き家も増えている。隣の家にうちの親と同年代の老婦人が住んでいて帰る度に顔を出していたが、既に子供のいる町の方に移ってしまっていた。そんな寂しい状況におぞましい事件が追い討ちをかけて、故郷は正に死に体だった。人が寄り付かないと言うことはそれだけで運勢を殺ぐ。スキー場もありキャンプ場もあるが、季節季節で人が集まると言うことよりそこに住んで養うだけの包容力がそれなりにあり、居を構えたいと思わせる魅力を備えていなければならない。確かに包容力も魅力も無いのだろう。しかしそういった事は見出され創り出されるべきで、その要素は隠されたものとして奥深くに眠っている。結局は人なのだ。人も含めて生かすも殺すも人間次第なのだ。この地に対する想いをどれだけ持ち、どれだけ祈り、この地の中に飛び込んで苦楽を共にする決意を供えた者がこの地と一つになれる。一つになれば創造の力が芽吹いてくる。土が教え風が教え、水が教え空気が教えてくれる。しかしながら、この土地の本当の価値を知る者は、この地で生を受けこの地で生涯を全うした多くの先祖が、その代々に積み上げてきた叡智を知っている。幾重にも幾重にも積み重ねられた叡智の上に私は立っている。彼らがどれだけ苦労してきたか知れない。その苦労を乗り越える為にどれ程の魂の知恵を要したか。外的な知恵に比べることもできない魂の知恵、積み上げた叡智こそが先祖が残してくれた宝なのだ。交通の便がいいだとか、誇る産業があるだとか、風光明媚だとか、そんな外的な目に見える魅力に群がる者達ではなく、耕作するに肥えた土地でもないこれと言った魅力は無いこの土地に育まれ積み上げられた内的霊的宝を見ることができる者だけが、この土地に住むことを許されている。御父母様に最後までついて行く者が少ないように、この土地で生涯を終えようとするものは少なく、ある意味選ばれた者達なのだ。

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