2009年12月15日火曜日
今日の想い 125
現在の自分の認識に満足し、その認識を宛がいながら限られた貴重な時を刻んでいる。生きることの基準である自分の認識が間違っているとは恐らく思わないだろう。み言を訓読しながら、み言の理解をもその認識を用いて行っている。本来み言が自分の認識の間違いを示さなければならないものを、逆に自分の認識でもってみ言を測っている。み言の自分への働きかけを正しい方法で受け取っているとは言えない。み言はみ言、自分は自分という関わり方を食口ですら捨てきれずにいる。自己否定という言葉を自分を傷つけ痛めることの様に捉えてきたことも事実で、自分を痛めることで罪の償いが為せるというのが自己否定なのだと認識してきたが、み言に関しての自己否定と言うのは、全てに対する自分の認識を根底から否定する、疑ってかかるということだと思う。実は兄弟ほど、頭の固い者はいない。中途半端にみ言をかじっているものだからそこに間違った認識が植付けられているにも係わらず、自分なりのみ言の理解を自分の歩みにも相手にも押し付ける。私達は自分の認識を常に疑ってかかり、認識の違う相手の言葉も先ず受け取ってみることが必要だ。御父母様を戴いているという事以外自分は何も解っていないという認識の位置から歩みを進めることが謙虚という意味に違いない。み言に対して本質的理解を得ていないから何とか受け取るみ言が自分の中でほどけ、その真の意味を差し出すようにと求める姿勢こそがみ言に対する正しい姿勢だろう。み言が自我とひとつになって魂を作り変え、堕落的外界から作用を受けて翻弄されてきた過去のそれとは違い、新たな魂は魂が主体となって外界に働きかける。
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