2009年12月31日木曜日
真の神の日、初詣
参道に連なる裸電球だけを頼りに、闇の帳が降りきった空間を分け入って前に進む。静まり返った参道に履物を引き摺る音だけが響く。用心に用心を重ねなければ直ぐにも張り出した根っこに躓きそうになったりする。暗闇に身体を進めれば冷気が顔面に抵抗を与える。意識は足元に、感覚は顔面に、ひたすら進むことだけに集中し、暖かく外套に包まれた胸の内は過去への未練も明日への愁いも何も無い。闇の帳が外界なら真っ白な帳が内界に降りている。お社に近付くと参拝する人々の呼気が白く舞っている。その中に割り込めば衣擦れの音を耳にし、樟脳の香りが鼻をつく。太鼓の音に精神を高揚させられるのか姿勢を正しコウベを勢いよくもたげると、思い思いにかしわでを響かせ口をつむぐ。何度か足を運んだ初詣で、みそぎに気持ちを整えられた人々を見るのは心地よかった。まだ明けやらぬ内に受け取るものと、明けて後に受け取るものとは受け取る質が違う。より精神的に深いものは明けぬ内に受け取ることができる。そんなことを思ったり感じたりしていた。教会生活を始めてから初詣はもうしないものだろうと思っていた。それが清平で復元された。清平での業、特に早朝の”祝福の木詣で”は初詣気分そのもので、何か懐かしいような嬉しいような、思わず喜びが声に出そうになったほどだ。連なる裸電球やら、どよめく太鼓の音やら、精神的高揚をもたらすものは何処か似ているものなのだと思った。カウントダウンに打ち上げ花火で正月を迎えたいとは思わない。除夜の鐘を胸に響かせ、お社の太鼓に胸の内を高揚させ、冷たい外気に身を正して神霊を感じながら正月を迎えることができれば、日本人として生きることができる。しかしながら日本人を卒業した私達統一食口はその基準で安堵し喜ぶべきではない。教会に足を運べばそれで善しとしてしまう自分の父母への不孝を改めて、絶対信仰、絶対服従、絶対愛とひとつとなる自分を誓願しながら、新年度に立てる理想像を差し出し、その為の決意と覚悟を魂から供える献身の儀式とならなければならない。まさしく並み居る高次の神霊達が、御父母様の聖席を挟んで左右に並んで謁見する中を、私の魂の全てを差し出し披露する場であり、神様と御父母様が最も耳を傾けられるその時とその場を重要視することで、一年の実りの為の耕しと種蒔きを為すのだ。
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