2009年12月22日火曜日

意識変革

棚からボタモチ的意識を捨てることができない状態で、絶対信仰と一つになることは有り得ない。何かが起きるのではなく、何かを起こす為に地上生を生きている。選ばれた私であるという選民の立場であれば、み旨に意識的に関わっていない多くの人々の様に、偶然的に起こるとする事柄に後から対処しようとする追随意識を持つのではなく、私達の意識は少なくとも一般人に対して一歩も二歩も先んじていなければならない。意識の先頭に立たれる御父様と、すぐにも同等の基準という訳にはいかないにしても、身に起こる事柄に翻弄され対処するので精一杯の生を生きるために呼び集められたのではなく、御父母様と共に創造理想を目指し、天国を築く為に召命された私なのだと断言して生きていかなければならない。自分の魂の在り様に於いても、この世と同じ悲喜基準で喜び悲しむのではなく、この肉体に同化してしまった感情魂を堕落的なものとして一歩距離を置き、御父母様に繋がる新たな感情魂を育成しながら、天が喜ぶものを私も喜び天が悲しむものを私も悲しむという天的感情を備えていく。祝福の儀式でもあればそれを受けることを通してどういうボタモチが落ちて来るのだろうと思い、蕩減時代を超えたと言われれば苦労をしなくてもよくなるのかと思い、いつも何かのボタモチが落ちてくるのではないかと期待する擬似信仰を繋いでいくなら、肉体存在としての御父母様を視認しているだけのことで、本来会わなければならない内的霊的御父母様との距離は何万光年も離れたままなのだ。御父母様の御前に乞食であってはならない。いつも何か貰えるもの、いつも何か起こるもの、自分の成長や変化はその内やってくるもの、そんなボタモチを期待するのでなく、何かを与え、何かを成し遂げ、自分で自分を変化させる必要がある。結局、自分が意志しなければ何も変わらない。変わらないどころか益々迷路に迷い込む。天の生命、愛、血統が植付けられた、御父母様に繋がる自分の中心に在るものを信じずに何を信じて人生航海の羅針盤とするのだろうか。益々混迷を極めるのは周りや社会だけではなく、自分の精神にこそ混迷を見るようになる。兄弟姉妹を含めて誰もが本質的な御父母様との出会いを為さない限り、混迷の中から浮き上がることはできない。

0 件のコメント: