2009年12月16日水曜日
ホワイトクリスマス
暖かい寮の建物の中から暮れ行く景色を眺めていた。窓ガラスの四隅が曇り、周囲が霞んだ景色は青白く幻想的だった。深々と雪は降り続き、永遠に止むことはない。そう願うのは、雪が降り続く間はすべての事を忘れて降り積もる雪に同化できるから。湧き上がる不安も恐れも雪に覆われ仮死状態になってしまう。雪の白さ一色に内面が満たされて、五感で受け取るものからは何の影響も受けない自分になれる。ある意味での至高体験だった。その当時、キリスト教的事柄に触れたことは無かったけれど、明らかにキリスト教的至高に手が届いていた。教会に通うようになって賛美歌の調べを自分の中に響かせながら、降り積もる雪を見ている時の内面から湧いてくる感情の中に、賛美歌と同じ調べが流れていたことに気付かされたことがある。仏教の慈愛の流れがキリスト教に引き継がれる。キリスト教の神の愛の中に仏教の慈愛は生き続けている。そう思うのは自分の中にキリスト教的な神や愛という言葉はなかったし、その言葉には何処か軽々しくよそよそしさを覚えていたからだ。自分の中に概念として無い言葉が本当は生きていたと言う事は、そういうことだと思う。今年もクリスマスがやってくる。信仰心の無い者ですら、クリスマス独特の雰囲気や景色の中に染まりたいと思う。口では只の行事だと言い、頭では神様やイエス様を否定しても、内面のどこかに相対するものを持っている。イエス様が地上にもたらした神の愛という、人間理想に向かう為の霊的潤いを、人類誰もが等しく受け取ることが出来る。自分に正直であればあるほど、神の子であるイエス様が渇きを覚える人類にもたらされたものが、自分に取ってもまさしく生命の水であると確信するだろう。深々と降り積もる雪を消灯時間が過ぎても見続けていた当時の内面様相を、褪せるどころか益々明確に、今の自分の内面に思い起こすことが出来る。内面に思い起こす降り積もる雪は、暖かい。
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