2009年12月5日土曜日

魂の拠り所

自分の魂の拠り所が何処にあるのか。通常生活を歩む上で、人間は何らかの関心を常に抱いて暮らしている。このひっきり無い取り留めの無い関心が魂の中で朝から晩まで続く。この関心が一体何によって発せられているかを知らずに暮らしている。ある事柄に引き付けられる自分がいるという事実だけを受け取りながら、それが人間なのだろうという暗黙の認識と、その背後にある認識し得ない霊の分野への参入動機を意識の外に置かれて、ただ外界の引力に魂をゆだねて生きている。その場合、魂の拠り所は外界の私に向かう引力として働く得体の知れない存在なのだ。しかしながら多くの者はこの世に生きているうちは、その存在に対して関心を向けようとはしない。許された限られた期間を終えて霊界の住人になるとき、先ず自分の一生を見せられながら、肉体を脱いで魂存在として霊界に生きる上で地上で培ってきた魂の拠り所が何処にあったのかを衝撃的に受け止めなければならない。衝撃的というのは、拠り所である魂の担い手を醜い存在にゆだねていた事実を突きつけられるからだ。醜い存在の有り様そのままを自分の魂様相として受け継ぎながら、醜い存在が支配する領域で霊界生活が始められる。真の父母に帰依した我々は、魂の拠り所が本当に御父母様にありみ言にあるのか、事あるごとに内省してみなければならない。魂活動の根源生命がみ言から来ているのかどうか、その意味はみ言が無かったら、御父母様がおられなかったら、私は死んだ存在になると言い切れる自分になっているかどうかだ。み言に距離を置き、御父母様に距離を置き、教会に距離を置いて、復帰途上の自分なりの生活に没頭すれば、それは魂の拠り所を、悪魔が支配する外界の引力にシフトを変えてしまっていると言うことだ。何も見えない暗黒の中に投げ出されたままで、献金だみ旨だと責められるままに自分の感情に対して奴隷的に歩む期間はそう長くはない。魂の拠り所を見通せる段階に至れば新たな翼を用意できる。足かせを外されて新たな使命に生きる。魂の拠り所を見通せない段階でああだこうだと言うのは不平不満であり反旗を翻さないとも言えないが、足かせを外され新たな翼を用意したものが口を閉ざし、目を塞いでいるのは、本当の奴隷でしかない。我々は奴隷ではないし、魂の奴隷であってはいけない。

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