2009年12月16日水曜日

真の愛

自分に向ける愛、自己中心愛を堕落人間は持っているけれど、それは偽りの愛で本来存在してはならない、愛とも呼べない愛なのだ。み言に記されたものは真の愛をあらゆる角度から説いている。真の愛の完全辞典として、自己中心愛の欠片も無く私の目前に提示されている。み言を手にして訓読する時、完全犠牲となられた御父様の、血と汗と涙にまみれた両手で、血と汗と涙が浸み込み染められたみ言として差し出されたものを受け取っている。本来なら受け取る自分に自己中心の欠片もあってはならないのだ。偽りの愛で汚れた手で受け取り、腐った自己中心的思考概念で紐解こうとするなら、最初から受け取るべきではないと言える類のものなのだ。敢えて私達は受け取っている。私達の中に真の愛に相対するものがあるからではなく、一方的に許可された立場で受け取っている。受け取るべき条件も何も無く受け取っているという謙虚な態度で臨まなければ、み言を受け取ることが出来るどころか讒訴されかねないだろう。御父母様に正しく接することができているかどうかを問うなら、み言によって自分の内面で、戴いた祝福が活き活きと枝を張り葉を茂らせているのを実感しているかどうかだ。その果実こそ真の愛の実と言うことができる。その果実から溢れ出す真の愛の香りを体験した者でしか、真の愛を所有することはできない。真の愛を所有した者だけが真の御父母様が住まわれる本郷、天国に共に住むことができる。この世の所有観念には自己中心愛があぶれ出るほどに詰め込まれ、餌で膨らむだけ膨らんだ腐りきった内臓のように、あらゆる異臭をそこから発散させている。腐った愛と真の愛の区別もつかないほどに愛への感性が麻痺し、とても人間とは言えない地の底で這いずる人間の姿こそ堕落人間なのだ。所有観念を全く持たれない、真の愛の化身を私達は見上げることが出来る。自分の中の全てを解析してみても、真の愛の概念を取り出すことは出来ない。御父様の骨髄の中に入り新たに生まれてこそ、真の愛を所有できる真の愛の概念を取り込むことが出来る。

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