2009年12月23日水曜日

今日の想い 127

善神と悪神は相前後してやってくる。まさしくその通りの状況だった。私の経験によると、悪神が先で悪神がひと暴れした後に善神が顔を出すというふうに捉えていたけれど、悪神が跋扈している中で善神が現れた。その従業員は特異な個性を備えていて、呼び寄せパンダのように使っていたが、それはそれとして店の大きな集客力を担ってはいた。何度か話してみて解ったけれど、彼が或る思い込みを持つと、それが独り善がりの性質を持ち他の説得をことごとく排して、戦闘的な態度をあからさまに誇示してくる。悪霊が憑いたように相手を罵り、普段の人懐こい性格は一変する。結局、四半世紀を共にしながらもここ数ヶ月、頑なな恨みを益々固めながら出ていくことになってしまった。辞めて尚、その恨みをぶつけたい様でチンピラのように店に係わってくる。出来れば気持よく別れたいので警察沙汰にはしたくないと思いながら、しかしながらそのハラスメントぶりは無視できる範囲を遥かに超えている。悪態をつく彼が去るようにどう対処したらいいのかと嘆息している調度その時、教会関係のその方はやってきた。ホリデイシーズンで両親が訪ねてきたと言うことで、夫妻とご両親とで店に足を運んで下さった。どうしてこのタイミングなのかとは思ったが、チンピラに対する嫌悪感で手は震え顔は引き攣っていた自分を無理にでも押し殺し、作られたものではあっても満面の笑顔を用意して挨拶をした。せっかくの会食を楽しもうと来られたその期待を裏切るべきではないだろう。おそらく気付かれることはなかったと思うが、私の感情の海は彼の事で荒れ狂っていた。霊感の鋭い方なので本当は何かしら店の異常に気付いたのかも知れないが、全てに満足されて私と一緒の写真まで収めながら喜んで帰って下さった。その後でもひと騒ぎふた騒ぎあったのだが、落ち着いた時に考え始めることはやはり、どうしてこのタイミングで、ということだ。あれこれ思案しながら行き着いた答えは、悪神の業に翻弄されている中での陣中見舞いとして善神の業が為されたということのようだ。そう結論付ければ腑に落ちる。悪神に直接的に係わろうとするのでなく、応援する形で善神が働いたと言うことに関心が行った。その意味はひとつの勝利的基準に到達するまでは直接的に救いの手を出すことはできない、私自身が供えるべき条件、立つべき位置が定まって初めて受け取ることができるものなのかも知れない。彼の行動に揺さぶられているということは彼と同じ次元、同じ目線と言うことなのだろう。私はこの問題に関してひとつの内的ステップアップを要求されている。後でその時のことを振り返りながら、顔でも洗って出直し、もう少し気の利いたサービスを提供すべきだったと少し悔いた。来て頂いたことに対する礼状でも送ろうと思う。

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