2009年12月26日土曜日

2010

顔を逸らせ逃げの体勢で新しい年に踏み込んだとしても、希望的年とはならないだろう。時は過ぎ行くものだと流れに任せ、いつの間にか新しい年が周囲に見えていたというのも、旧年の業(ごう)を背負ったままであって新しい年には入っていない。それは新年の中で自分だけが旧年に生きているということになる。新しい年にしっかりと踏み込み、更に新しい年の希望的気運を引受けるには、決意と覚悟に裏付けされた新年度の理想像を理想家庭を理想世界を、しっかりと視線の向こうに捉えなければならない。今の環境圏にいつまでも執着するから、訳の解らぬ様々な亡霊に苛まされたままなのだ。執着した者を霊的に見れば、地を這いずり塵を喰らう存在様相に見えるだろう。霊的足を鍛え翼を備えたなら、空高く飛び立つことを躊躇してはならない。攻撃は最大の防御であると言うけれど、リスクに怯えて新たな創造に寄与しなければ、何の為の戴いた今生であり肉体なのかと問われるだろう。確かに小さな店にしてみれば決して少なからぬ拠出はしてきた。しかしそれでもって貢献したと満足すべきではない。利益をはじいてそれを創造とは言わない。その利益を用いて呼び水にしながら新たな社会創造や経済創造を為し、それで初めて創造と言える。2010年度は創造の年だ。自分という理想人間の創造、理想家庭の創造、そして新たな社会経済創造の年だ。内向きであれば滅びてしまう。今あるものに執着すればウジが湧く。堕落海の底深くにも光が届けられている。光として届けられる真の愛がそこかしこに溢れて平準化される。真の愛を真の愛として受け取るものは真の愛の証しを立て、周りの者達はそれを眩しいほどに見上げるだろう。祝福家庭がその証しを立てるのだ。祝福家庭には新年度の希望的気運を引受ける義務がある。

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