2010年2月28日日曜日

今日の想い 147

将来への生活安定や心の平安のみを心配し、魂の意志としての活動が自己擁護に終始するなら、真の父母から預かったものを蔑ろにすることになる。真の父母から預かったものを隅に追い遣り無視しながら、それでも生き続けることに何の意味を見出し、一体何の未練を覚えているのだろうか。自己擁護を叫び続ける私の魂がそれ程に可愛く愛おしいのなら、真の父母にその血筋を持つ、心の片隅に追い遣れた真の自我は、アベルとして認められるどころか存在としても認められず、私の中に居所はない。真の父母を外には見ることができたとしても、私の中に真の父母を見ることは無い。私の中に見ることができないものを外に見たとしても、それは幻想でしかない。実体である御父母様にどれ程敬意を表し、何千万遍啓拝を捧げたとしても、私の中に御父母様が居られるのでなければ御父母様と私との関係性は、肉体を脱いだ後に残りうるものとはならないだろう。良心の叫びを私の中から聞き届けるように、御父母様の叫びを私の中に聞き届ける者とならないのであれば、真の父母にまみえた意味は見出せないし、真の父母と共にある実感はない。意味が見出せないまま、惰性で御父母様と呼ばわり続け、御父母様に慕い侍っているつもりの世界から抜け出せないままでは、永遠に私の中に御国は完成されない。何らかの思わぬ力が魂に作用することで、心の隅に追い遣られていた存在に対して光が当てられる。苦難を掻い潜る毎に、私の中の真の父母が存在感を現す。様々な訓練試練を乗り越えて、私の中の真の父母の存在が魂全域に及ぶことが、この三年間に準備することだ。2013年を超えて、魂への大艱難が襲来する。準備されていない魂に取っては大艱難であっても、準備された魂に取っては途方も無い祝福だ。

春の内的霊的意味を見る

今まで冬の冷たい風に曝されていた野山や田畑に、暖かい春風が優しく吹き込まれ、全ての生命は誘い出されるように目覚めて活動を始める。閉ざされて仮死状態にあった生きとし生けるものが芽を出す。春の訪れは誕生であり復活の霊と雰囲気が大気に満ちていく。春の霊に優しく誘われて、閉じ込めていたものを解き放ち、少年少女が思春期を迎えるようにそれぞれの霊の美しさを花開かせる。結婚を迎える新郎新婦の装いを地上の咲き乱れる花々として装い、光の霊との出会いがそこかしこに繰り広げられる。春の季節は出会いとしての地球活動だ。宇宙の陰陽が出会って結婚し、受精する。光として訪れる宇宙の陽と、陰としての地上的なものが受精する。春の季節に、春の霊に包まれて、私の中にも宇宙の陽として受け取るものと、冬を越して内的深みの中に準備されてきた陰としての対象的なものがある。冬の冷たい風に曝されながらも、春に宇宙の光を受け取って受精する為に用意されてきたものがある。宇宙の光を受け取ることで、冬の間に通過した試練の意味が見えてくる。春という宇宙の披露宴に光の陽と闇の陰が結婚する。私の中に新たな内的霊的創造が為される。その創造の経過を見届け、創造対象を私の中に存在しなかった新たな叡智や発見として、自分の中に見出すことができる。新しい、復活した、私と言う存在を見るのでなければ、春を迎えたと言うことはできない。冬の間を耐えることで、新たな内的霊的感性や装いを春にまとうのでなければ、春を迎えたと言うことはできない。

2010年2月26日金曜日

今日の想い 146

今日一日の生活を送りながら、自分に起こった全ての事柄に対して意識しているように思っているけれど、本当は三割も意識上には受け取っていない。後の七割は意識の背後に葬ってしまっている。もし私が全ての霊的事柄を意識的に受け取ることを強いられるなら、良くも悪くも破壊的なほどの霊的な影響を私自身に及ぼしてしまい、普通に生活することは極めて困難となるだろう。五感や霊的感性で周辺の事柄を受け取りながらも、実は直接的に受け取るのではなく、フィルターがかけられたものを受け取っている。霊的フィルターとしての役割を使命とする霊を私は頂くことで、支障なく毎日の生活を送っている。守護霊であったり天使であったりと、いろんな霊的存在が私を護ってくれていることは確かだ。しかしながら現代人は、本来意識的に受け取るべき霊的要素の多くの部分を拒絶してしまっている。もっと自由であるべき内的霊的感性体が、あまりにも肉体という物質の中に取り込まれている為に、身体の表皮や輪郭を超える感性体を用意できずにいる。五感で受け取るだけでは一を知って十を悟ることは出来ないのだ。今日一日を振り返りながら、通り一遍の起こった事柄を思い起こすだけでなく、今日でしか出会えなかった事があり、受け取った経験の背後に新たな叡智として受け取るものがある。今日一日の中に長く続いた一つの蕩減が終着点を迎えたものもあり、私に対する新たな一つの摂理が出発したものもある。普通なら見過ごしてしまう内的霊的学びを、より意識的に、より能動的に体験に係わることで、神秘の領域に隠されていたものが浮かび上がり姿を現す。内的霊的に目覚めた者は、毎日が別様に光り輝く叡智の学びに満ち溢れていて、飽きることが無い。

2010年2月23日火曜日

今日の想い 145

神様がこの天宙を生きておられるように、私は私と言う宇宙を生きている。神様の思考理念である天理を紡ぎ出されるように、私という宇宙は私の思考によって紡ぎ出され、紡ぎ出された思考が概念という内的世界を創り上げる。天理の中で森羅万象が繰り広げられるように、私の内的世界の中で感情という様々な色彩世界を繰り広げながら、一つの宇宙生命としての私の人生を創造する。生きていく上で数限りない課題が私の前に立ち塞がる。この課題が私と言う宇宙に刺激を与える。刺激を受けることで私の思考は訓練され、私という宇宙の中に新たな次元世界を組み立てていく。精神を悩ます課題を消化する毎に私の宇宙は次元を増して行き、次元の広がりが即ち心情の広がりとなる。天宙の創造に神様の愛が惜しげもなく投入されているように、私と言う宇宙はみ言を思考の基とすることで真の愛が宇宙形成の要素となっている。堕落的概念で築かれた世界様相が崩されながら、それは自己否定という既存の内的世界の崩壊を甘受しなければならないけれど、神様が内在し御父母様を戴く新しい世界の創造は堕落的旧世界がスクラップされて始めてビルドされていく。蕩減生活を通して整地された上で新たな世界の建設が為されていく。真の御父母様を血統因縁として戴いて出発した真の家庭を築きながら、四大心情圏、三大王権、皇族圏を完成することが、私と言う宇宙から高次元の家庭宇宙を創造することだ。家庭の中が真の愛という熱様相に満たされ、父母と言う太陽存在、月存在が昼の光と夜の光を照らし続け、未来理想を子供や孫達に見る。神様の御心情が横道十二宮を外的象徴として表されているように、十二の真珠門を開ける心情の鍵がこの家庭の中にある。

2010年2月21日日曜日

今日の想い 144

普通の人間の悟性では理解できないものを求めているのであり、人情という感情を犠牲にしなければ届かないものを求めている。私達は御父様の語られる言葉の殆どを理解してはいないし、み旨として歩んで来た過去には多くの人間感情を犠牲にしてきたものが積み上げられている。それでも御父様を求めていこうとする意志をそれぞれが持ち合わせて未来に向かうのは、堕落人間としての私がそう判断するのではなく、私の中におられる御父様がその意志を担っておられる。み旨として前進するに、敢えて摂理に対する理解がはっきりと為されて歩むのではないし、自分が可愛くて感情を傷つけまいとすれば前には進めない。魂の安らぎや至福感がその先にあるからと言うように、たとえそれが内的な事柄に関してであったとしても、損得を計りにかけてみ旨の動機とすることはできない。御父様の心情圏の一つ一つを躰恤したいという衝動こそ、み旨の本当の動機となり得る。悟性で理解できないものに飛び込もうとすればしきりに反発し抵抗する自分がいる。受け入れられないものを無理にでも飲み込もうとすれば感情を激しくかき回され害する。み旨に要求されて私の思考の限界領域、感情の限界領域を超えるためには、御父様と一つになりたい、御父様と同じ事情圏、同じ心情圏の中に入りたいという意志の力だけが超えることができる。その意志の力でこそ堕落の大気圏を突き抜け超え出ることができる。その意志の力に確実に御父様は働いておられる。この天宙が神様とサタンの戦いの場であったし真の御父母様の勝利的基台が為されて神様を天宙のオーナーとして迎えられたように、私達それぞれが自分という宇宙を戦いの場とされ御父様の霊と堕落的霊が闘っている。勝利を決意して果敢に前進しながら神様を私と言う宇宙のオーナーに迎える日を目指している。

2010年2月19日金曜日

マンサクの花

二月の半ばを超えてやっと積もった雪が解け始める頃、いち早く春の気配を届けるマンサクの花が雪の白を背景に黄色を滲ます。シュレッダーにかけた紙をくしゃくしゃにしたような、決して姿形のいい花弁ではないけれど、暗闇の線香花火のように、冬の大気に小さなひび割れを入れる春の先発隊だ。まだ雪深い林道を軽トラで上りながら、父はやっと向かう先を口にした。林を抜けると視界が開け、雪に覆われた山々が見渡せる。雪道に手こずってこれ以上上れないのかと思ったが、どうも目的地はここらしい。谷に向かう白い山肌に、その細い木は一本だけ立っていた。父は感慨深そうに何の変哲もないその木を眺めた。花が咲いていると指を指して私に促す。マンサクの花はそう目立つ花ではない。幾らか目を凝らしてやっとのことでそれらしいものを認めた。誰もが最初にこの花を見るなら、これでも花なのかと思うほど華やかさも色鮮やかさも受け取れない。実は私もそうで、花を観賞したのに何か裏切られたようで小さな感動もなく車に乗り込んだ。しかし花と言われる姿形とは明らかに異なるその在り様は、強く印象には残った。山肌の林道を降りながらその花の印象を心の内に何度も何度も描きなおした。そうしながらその花が私に差し出したものがある。立春を過ぎたと言っても春とは名ばかりで春の訪れの気配すら無い。冬の冷たい空気に細長い花弁を浸入させようとすれば、冷気の抵抗をまともに受け縮れてくしゃくしゃになる。花の季節ではない季節に花を咲かせるとはそう言うことだ。花としての美しさを犠牲にしながらも、か細い花弁に春の訪れのひび割れをもたらす先発隊としての使命への従順と覚悟が備わっている。マンサクの花の美しさはその姿形や色合いにあるのではなく、か細さの中にあるその強い意志にある。見下ろす雪深い山肌に足を踏み入れたとしても、もっと近くでその花の咲き様を観察すべきだった。麓に下りてしまってから後悔した。

2010年2月18日木曜日

幻想を超えて

感覚で受け取るものは全て幻想だ。私の前に広がる世界の一つ一つの構成物を、視覚で受け取ったありのままを現実として捉えているけれど、構成物の背後の霊的実体を見通す力を備えることが必要だ。構成物の輪郭と表面に捕らわれている以上、霊的実体を視ずに唯物観念という幻想の中で生きているに過ぎない。私の前に広がる感覚世界はその背後にある霊の世界がその本質であることを忘れてはならない。この世界に働きかけながら、物を物として受け取るのであれば、人間としての関わり方とは言えないだろう。物を感覚を通して受け取る過程で、内的霊的なものを受け取るのでなければこの世界はあまりにも味気ない。色彩溢れる外界を通して、私の中でその色達が歌い踊り、語りかける。光を色彩として反射し、その表面様相の硬さや柔らかさを差し出しながら、それらを形作る霊達の声を聞く。外界から感覚で受け取るものが幻想であるように、内界に渦巻く感情様相も幻想だ。感情の趣くままに踊らされるなら、感情の背後に蠢く霊の本質を見届けることは無い。感覚世界というベールが外界にかけられているように、感情世界というベールが内界にかけられている。外に向いてベールを超えた先にあるものと、内に向いてベールを超えた先にあるものとは、同じ霊の本質を差し出している。感覚世界を突き抜けて外界の本質を求めてきた歴史の流れと、精神世界を突き抜けて内界の本質を求めてきた歴史の流れの二つがある。天宙統一は歴史の流れの統一でもある。私をして外界の本質と内界の本質が一つとなる。歴史の真の結実体とはそう言うことだ。カインの流れとアベルの流れが私の中で一つになる。一つになって、新たな私という霊の本質が花開く。

創造過程

今私達が存在する現宇宙の前に、一次から三次の別の宇宙が存在した。現宇宙は第四次宇宙として現在の在り方をしている。しかしながらそれぞれの宇宙がどんな在り方をしていたかを思い描くことはできない。思い描けるものは現宇宙の中に留まるものに限られている。数理で表されるものだけが今の宇宙を越えた状況を把握できる。内的霊的感性を鋭くした者が、数理で表されるものの冷たい表象を色鮮やかに象徴的に得ることが出来るが、あくまで象徴であってそれをそのまま受け取ると宇宙の本質とずれてくる。現世までの宇宙の創造発展を象徴的に追うことはできるのでそれを追って見るなら、原初宇宙は熱い想いだけが渦巻く宇宙と表象することができる。私達が何かを切に望むとき、胸にたぎる熱い想いと表現するように、神様の熱い想いがたぎる様相が第一次である原初宇宙だ。熱い想いが内面に留まりきれずに堰を切って表面化してくる。第二宇宙に向けて宇宙はひとつの太陽存在を創り上げ第三宇宙に向けて分離させた。陽としての太陽存在を活動させた第二宇宙は、神様の二性性相を現すべく陰としての月存在を創り上げる。それが第三宇宙の誕生だ。第三宇宙では宇宙の夫となる太陽存在と、宇宙の妻となる月存在との二性性相がその在り様だ。第三宇宙から第四宇宙への過渡期に太陽存在から月存在への受精がなされる。この宇宙の結婚が為された後、月存在から地球存在が産声を上げる。霊的原因的な過程から外的結果的な過程に目を向けると、熱様相の土星的在り様をした原初地球から太陽的地球となり太陽を分離した後は月的地球となる。そして月的地球から月を分離して今の地球紀を迎える。土星、太陽、月という三段階を経て現地球となる。よって三数は天の数であり、現地球を含めると地の数四数となる。宇宙的四位基台によって生命地球が創造された。

2010年2月15日月曜日

自分存在の復帰路程

私達が御父母様を戴いて、慕い侍る生活をどれほど誇らしく思っているだろうか。み言に触れ御父様を明かされて、幼い次元ではあったとしても感動し、周囲の誰にでも伝えたくて仕方が無かった当時の熱い想いは何処に消えたのだろう。何の疑いも覚えずあまりにも素直に受け取り、覚えた私の感動と同じ感動を誰しもが覚えるものだと当然のように思っていた。路傍に立って道行く人々に声をかけながら、多くの無関心な反応を不思議に思い、時に反感さえも態度に表し罵る者もいて呆気に取られたこともある。若くしてみ言に触れることができて良かったねと当時の兄弟誰もがそう言ってくれたけれど、堕落や罪の行動体験も無いままで堕落や罪の意味を知ることが、本当にみ言を理解したことになるのかどうか、甚だ疑問だった。人生に対する疑問を問いかけられて応えるほどの人生経験がある訳でもなく、その内アンケートに記入してもらうだけでそれ以上深入りすることも躊躇するようになり、伝道ではなく只のアンケート屋に落ちてしまった。教会生活の中でみ旨に邁進し、どんどん復活していく同期で復帰された兄弟の後姿だけを目にしながら、内的霊的暗闇の中にどんどん落ち込んでいく自分がいた。御父様の存在感もみ言への理解も、勿論感動や誇らしい思いも、堕ちていく暗闇の中に消えていく。み言に触れ御父様を明かされた最初の時の興奮がすっかり冷め、暗闇のどん底に落された時点が信仰路程の本当の出発点だったと、今振り返れば言うことができる。どういう訳か祝福願望だけは強く残っていたけれど、毎日のように繰り返される外的活動に、人に接する事への恐怖ばかりが強まってみ旨への嫌気感が大きくなっていった。教会生活を為しながらも、神様が見えない内的暗闇の中でもがき、手探りをしながら歩んだ期間がある。み言理解の一つ一つを吟味しながらも、時間をかけて少しずつ御父様を御父様といえる自分を取り戻し、成約聖徒としての誇りを取り戻し、み旨に向かう意志を取り戻し、与えられただけの借り物としての神様と御父母様に対する対象存在ではなく、自分で掴み取った、神様と御父母様に対する本物の対象存在となる為の私への計らいの役事が、その期間の背後に隠されていた。復帰された当初の、一方的に感じさせられたみ言に対する感動や選ばれた者としての誇りを、今は自らが勝ち取った自らの内から湧き出るものとして、実感として手応えのある感動と誇りを覚え差し出している。

2010年2月14日日曜日

今日の想い 143

心という縦軸に神様が活動され、体という横軸に御父母様が入っておられる。神様が働く垂直軸と、御父母様が働く水平軸が交わるへその位置、へそと象徴的に言うところの生殖器が垂直軸と水平軸が交わる中心だ。中心が定まっているということは縦軸と横軸がぶれることがない。絶対性が確立されてぶれない縦軸として神様が私の心に顕現され、ぶれない横軸として御父母様がこの身体に顕現される。数の秘密を解き明かされながら天理が数理で表されることに触れられるように、自分という存在の本質は立体座標として表されるはずだ。上下を正しく備え前後左右をどのように正しく備えるかによって、様々な人生となる。地上空間に於いて上下が定められ、前後左右を認識することで平衡感覚を持たなければ正しく生活できないように、内的霊的私が吹き飛ばされ消え入らない為には神様が正しく正午の位置から働かれるよう良心の声に絶対信仰をもって応え、御父母様への絶対服従をもって左右の位置が決められることでみ旨としての自分の為すべき使命を前に見る。絶対愛の行動として内的霊的に前進することができる。内的霊的前進は私という存在の絶え間ない創造だ。絶え間ない愛の行使だ。家庭という立体座標を見るならば縦軸が親子関係であり左右軸は夫婦関係となる。家庭としての愛の行使と新たなる創造は子供達の誕生と成長であり子供達が新たな家庭を築くことによる氏族圏への展開が家庭としての前進だ。堕落世界に於いてサタンの主管圏で生きる者は、天地の軸が既にぶれており、唯物的なものや自己中心的なもの、権力的なものへの帰依が東西南北を決めている。限られた地上生活のみへの関心が意志を決定し、地上という砂上に幻想楼閣を立てるために生涯を通して精神を労する。心という縦軸に神様が働き、体という横軸に御父母様を頂いた絶対性を中心とする私と言う存在は、家庭を為す上で四代心情圏を通過しながら、この世の者達と明らかに異なる内的霊的次元に生きていることを実感している。

2010年2月11日木曜日

前に進むという意志

不安に思うこの一瞬の信仰の揺らぎ、その隙間にサタンは侵入してくる。弱音を吐くことは隙を見せることになる。確かに不安材料は山ほどある。不安の山を見上げながら手をこまねいているうちに貴い時間は過ぎ去ってゆく。だから前進するしかない。一歩でも半歩でも歩みを進めるしかない。立ち止まってみる夢は夢とは言わないだろう。現実から逃避せずに、現実を見据えながら歩みを進める過程で描くものが輪郭をもった夢であって、立ち止まってみる夢は逃避幻想でしかない。この世では酒でも飲んで現実から逃れようとするけれど、酒も飲まずに現実から逃れようとしている。立ち止まったままでどれ程の年数が経ったろうか。信仰と認識していたものが実は逃げであったり、愛と認識していたものが妥協であったり、慕い侍ってきたと自負していたものが実は甘えであったりと、立ち止まった状態では摂理に歩調を合わせることも、御父様に後れを取らず付いていくことも本当は出来ないのだ。摂理は加速度的に進められ、気を許しているうちに御父様は手の届かない遥か彼方を歩んでおられる。視覚から失いかねない危機感を今持たなければ、永遠に追いつくことはないかも知れない。時の流れに身を任せることが前進しているとはいえないのだ。自分が立ち止まったままで摂理の状況を把握することは出来ないだろうし、み言の意味も力も受け取ることは出来ない。立ち止まったままの者こそ、やたらに自分なりの理解をしたがるものだ。知らぬうちに霊的にあらぬ方向へ向いてしまい、み言を曲解したまま御父様を見失う。目前にある超えるべき山から目を離さずに、果敢に一歩一歩踏みしめて山頂を目指していく。立ち止まれば不安感情で足は動かなくなるだろう。動いていればこそ、前進すればこそ道は開ける。

2010年2月8日月曜日

主体、対象的関係

私という自我が存在する為には、主体、対象的関係を自分との関係に於いて見出さざるを得ない。悟性で認識しようとするなら、主体、対象的関係の哲学こそ我々がみ言理解、教材理解の為に必要な、存在に関する御父様の中心的認識だ。そして主体、対象的関係を築く為の要素が真の愛に違いない。対象が主体を見出し、真の愛で一つとなり新たな対象存在となる。その対象存在が新たな主体を見出し、真の愛で一つとなり又新たな対象存在となる。対象の立場で見る理想郷とは、神様を中心に放射状に全てのそういった対象が繋がる世界を言う。この堕落世界は個人にしろ国にしろ、自己中心という自己主体幻想病に犯されている。自分や己が国が対象存在であり主体を見出して一つにならないと存在基盤も失うということに気付いていない。自分が主体であるという幻想を抱いたまま生きている。肉体は生きて前進しているように錯覚しても心魂は彷徨っている。肉体を失った者が幻想から目が覚めると、主体を見出せない対象存在は迷いの果てに消えてなくなる恐怖を味わう。彷徨う人間魂の数々を周りに見ながらも、私と言う心魂存在は真の主体を見出して存在し生きている。その奇跡とも言える己が立場をはっきりと認識し、存在基盤を得た者はそれだけの使命があることも認識しないといけない。真の主体の前に完全対象となるべく絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つとなる。その基準でこそ家庭の中での主体の位置に立ち、氏族の中での主体の位置に立つことができる。主体を見出せずに彷徨う家庭であるなら、氏族であるなら、形骸化して存在基盤を失った墓場でしかない。生活の中に没頭し、肉心的幻想状態でありながら、私や教会との距離を置こうとする親族の表面的訴えに耳を傾けるべきではないだろう。彼らの心魂は彷徨い、その内に消え失せようとしている事実をしっかりと受け止めて、彼らを救う義務が私にはあるはずだ。

2010年2月7日日曜日

今日の想い 142

二日続いた雪が止んで今朝は冬の青空が広がっている。暗い雪雲が覆った吹雪の空間は灰色の世界だったのが一夜のうちに一掃され、冴え渡った空気に朝日が差し込むと、灰色の世界は一面の銀世界に様変わりした。時間が経つごとに地上に届く光が増すと、反射光が目に眩しく光はダイレクトに身体を包み込む。熱を帯びた夏の陽光を受け取るのとは違って、雪に反射された陽光は熱を奪われた光としての本質を受け取れる。天宙創造に於ける初期の熱だけの在り様が、より地上的な気体存在とより霊的な光存在として進化するように、雪による反射光の中により強い高次の霊的なエネルギーを感じさせる。堕落的地上的世界を再創造し変革させる霊的エネルギーを感じさせる。陽暦から陰暦に重心を移し、この13日から14日にかけて年が明ける。本当の2010年の幕開けだ。今回の大雪のように外的に見る自然の摂理の中にも新しい年を迎える準備は為されている。このワシントンメトロエリアの大雪は、私自身と店の事をも含めて、アメリカ摂理の要であるものの一大清めの外的表れであると言う事ができる。雪による反射光を浴びながら、目を細めるほどに眩しい反射光を視覚を通して受け取りながら、自分に対する清めが為され2010年の準備を内的霊的に為している。私と言う魂をこの役事に開いて、粛々と執り行われる清めを内面に作用させる。この場に居てこの大雪に見舞われた者としての使命がそこにある。内的霊的感性を鋭くさせながら、地上的堕落的なものに埋もれず天に通ずる自分をより強く成長させ前面に出すことが大切だ。私が果たすべき使命である天の願いが、決意という形で内面に備わる。

今日の想い 141

ここワシントンでは史上まれに見る大雪となった。この冬の雪の多さは今までに無く、そして降れば必ずドカ雪となってしまう。除雪機をつけたトラックがせわしく動き回っても、掻いたはしから積もって殆ど用を成さない。用事があって車を出したが、駐車場から一般道に出るまでが一仕事だった。いつもは引きも切らない車の流れも今日は全て消え失せて、除雪車しか見当たらない白く霞んだ通りはゴーストタウンさながらだ。並木もビルも吹雪に打ちひしがれ、白い魔術をかけられたままだ。大雪が降る年は豊年だ。サンパチ豪雪の時もその年の夏は日差しも強く実りも多かった。冬の厳しさが深ければ深いほど、夏に受け取る恩恵は多くなる。ゼロポイントから下がって上がって戻ってくる波形が一つのサイクルとすれば、夜が最も長い冬至を挟んでかつて無い内的霊的困難な時期が最も下がった時点ではあった。そうして夏至に向かい降りた反動でもってひたすら上がっていく。内的冬の期間の試練に応じて、時間差で受け取る内的恩恵は大きいはずだ。水分を多く含んだ雪は重たい。木々は積もった雪の重さに枝をたわませながらもひたすら耐え忍んでいる。耐え忍びながらも降り積もって被さる雪に対して不平は覚えない。自然体で耐え忍ぶ。甘受することで逆に内的生命力を得ている。試練の時期に於いて無闇に反発感情を高ぶらせたり、それに伴う行動を取ったりすべきではないだろう。吹雪に見舞われ雪の重さに黙って耐え忍ぶ木々の在り様に頭を下げながら、その静かな力を叡智を木々から受け取る自分でありたい。試練を受けることでその背後にある力を得ることが出来れば、夏の降り注ぐ陽光の恵みの全てを余すところ無く受け取る力となる。

2010年2月4日木曜日

今日の想い 140

堕落人間と同じ次元に存在されること自体が、御父様に取ってはその貴い魂を引き裂かれるほどの御立場なのだ。堕落人間は地上の堕落世界の汚れ果てたよどみの中で生きることに、息苦しさを味わうことなどそうはない。魂の在り様自体がよどんでいるからだ。地の底という悪霊が沈殿しているヘドロのどぶ水の中で浮き沈みしながら、罪という心魂の病を自覚もせずにうごめいている堕落人間を、救いだしたいただそれだけの想いで、想像を絶する主の路程を今日まで辿ってこられた。救い出そうと御父様の千切れんばかりに差し出される腕を無知ゆえに払いのけ、塵芥を喰い続けて病む人間魂に薬を与えようとされれば喰えない苦いものを押し付けるのかと罵倒し、魂の霊なる食事を差し出せば逆に糞尿すら投げつけかねない。霊的に見るならそんな有り得ないような仕打ちを御父様に対してし続けてきたのが堕落人間だ。しかし打たれれば打たれるほどに尚更強く愛することを覚悟され、我々が不信仰を助長すればするほどに、逆に御父様の愛は深みを増し加えられる。それは我々の知っている愛の概念を根本から変え、それこそが愛なのだ、真の愛なのだと自らが自らの貴い魂でもって証しを立て続けられる。それを御父様の強さからだと、強さのみで説明できるだろうか。その愛の形は強さを超えて悲しくなる。御父様が我々に差し出された愛の本質を見ようとすれば慟哭するしかない。真の愛として地上に降り注ぎ始めた新しい愛の要素は、御父様の悲痛な犠牲がその本質にある。真の愛によって感化を受け始めた者達は、尽きない涙そのものだと言える御父様の御心情を尋ねざるを得ない。

2010年2月3日水曜日

今日の想い 139

朝目が覚めて、意識を今日一日を歩むことに向けるとき、目覚める自分を待ち伏せしていたかのように、払いきれない靄が一日を見通そうとする意志に陰りを落す。不安と言う靄やおののきと言う靄が陰りを落す。その靄の中に佇み、不安感情の中にうずくまると、度を強めた更なる不安感情として密度を増してくる。囚われてがんじがらめの状態になる予感を覚え、身動きが取れない危険を感じると、やっと意を決し今日一日に向かって歩みを進める。自分の魂を蝕もうとするこの靄が周囲に漂うのを許したままにしている。本当は解っているのだ。自分の弱さや曖昧さ、またそれを装えば天から某かの同情を得て救ってくれるだろうという甘えがこの靄の発生源なのだ。自分の心魂の中に真の父母の御旗を掲げた者としての誇りを持とうとするなら、御父様の息子なのだと断言するなら、この弱さを克服しなければならない。甘えたい年頃は遥か昔に過ぎ去りながら、いつまでも弱弱しく泣きごとを報告するなら、御父様の足手まといでしかないだろう。決意し覚悟した内容も、供えている条件も、そして報告祈祷さえも、弱さが自分の中に居座るのを許したままであるなら、弱さゆえに全ては虚偽だと言われても仕方がない。周囲のあらゆる状況が自分に矛先を向けているように思えても、実のところ自分の内面の鏡として周囲の状況に現れる。状況解決の答えは鏡に写された外界にあるのではなく、自分の内面にある。自分の内面に於ける口やかましい思考や、暴れ馬の如くに荒れ狂う感情を主管する術を見出すことが大切なのだ。強さとは自分に対する主管力だ。天宙を主管する前に自己主管と言う言葉は御父様の座右の銘だ。御父様の歩みの中に、御父様のみ言葉の中に、絶対的な力、絶対的な主管力の教えがちりばめられている。

2010年2月2日火曜日

良心作用

人間一人一人には良心作用が働いている。この良心とは何かを深く問うてみた者は少なく、内的に感じる何かだと言えるに留まっている。良心は良神であり、魂の健全な在り様の為に一人一人に備えられた羅針盤的存在だ。身体を傷つければ痛みが発し、身体保護の為の機能として備わっているように、魂を病むような思いや感情、そして感覚を起こそうとすれば魂保護の為の機能が働く。心の痛み、即ち良心の呵責として発する内的作用がそれだ。相手に対して誤った行動に出る場合、行動に出るに足る内的思考や感情が堰を切るほどに大きくなっている。思考であれ感情であれ、そして受け取る感覚であれ目には見えないとしてもそれぞれは実体存在に違いない。霊的に見るなら、思考すれば思考形態として霊的靄や霊的雲として現れる。感情形態も感情雲として現れ感覚形態も感覚雲として現れる。人間の内的活動は善なるものであれ悪なるものであれ、そう言った霊的形態の創造をしている。憎む思いを持てば怨念雲を作っているのであり、淫乱な思いに耽れば淫乱雲を作っている。そう言った思いを振り切れば雲も吹き飛ぶが、思いを強くし靄や雲の状態がはっきりとした輪郭を持った形態として自分の周りに漂い始めると、それに霊的滋養分を見出した霊を呼び寄せ受け取り始める。それはその形態に吸い寄せられるように霊的滋養分を取り込もうと浴する霊が入り込んできて、即ち怨念には怨念霊が、淫乱には淫乱霊が入り込んできて自分の周囲を漂い始める。自分の良神が働けば、健全な魂を破壊しようとするこれらの霊存在の影響を心の痛みとして感じさせる。それが良心の呵責だ。良神が強く働いてそれに従えば一瞬にして善なる霊に様変わりし、善霊の平安に包まれる。

今日の想い 138

白髪交じりの頭髪が、昨夜からの熱に身体を転がせ続けたせいか、絡まったままにされている。腫れぼったい顔に虚ろな目を泳がせながら、熱によるだるさでソファーに寄りかかる。いつもはそれなりに紅も付け化粧もしているけれど、その意志を無くして曝した素顔に、それとなく目を逸らしてしまう。その辺りに落ちている枯れ枝のような腕を小刻みに震わせながら、むくんだ足をゆっくりさする。言葉が理解できないのを嘆きながらも、人一倍、店のフロアーを往復している姿をカウンターから見ていたのが昨日の事のようだ。張りのある声で小さな二人の子供を追いかけまわしていたのが、ついこの間の事のようだ。時は残酷ではある。外的な事柄のみを意識に上らせれば時は全てを色褪せさせ収縮させる。様々な色合いを表情に溢れさせ、溌剌とした動きから精気を発散させていた当時の輝きは今は無い。色合いのひとつひとつを失ってきた。艶やかな輝きを失ってきた。しかし本当は失ったのではなく捧げてきたのだ。捧げたものを今子供の中に見ている。捧げたものは御国の礎石として備えられていく。その気付きを得ることで、輝きを失せ収縮した身体の本質的価値を見ている。身体をすり減らすように、精神的歩みの中で心を配り心をすり減らしながら、より大きな魂存在を成長させている。家庭の中で心を燃やして家庭としての魂を成長させ、この国に心を燃やして国としての魂を育て上げ、人類一家族の理想に心を燃やして地上天上天国を築き上げ、私と言う霊は育てたものの中に、築き上げたものの中に安住する。

2010年2月1日月曜日

力の源泉

中心者や巡回師から何度も何度も言われたことがある。他の兄弟に比べて実績が劣るのを咎め、私の顔を覗き込みながらこう問いかける。あなたは何の為にみ旨を歩んでいるのか。そう問われても返答ができない。み旨とは何なのか、み旨とは実績を出すことなのか、中心者はどうして電話番をしながら追求するのか、み旨とは追及されることなのか、今日の歩みと天国建設とどう繋がるのか、自分に取ってはわからないことだらけで何を問われても禅問答のようでたじろいだ。答えに窮しているといつもお決まりの様にこう促される。誰の為でもない結局は自分の為にやっているのだと。そう言われれば何もわからないにもかかわらず、それで納得すべきなのだと思ってしまう。自分の為、自分の為と心の中で繰り返しながら歩もうとする。しかしそれでも力は出てこない。自分の為なのに力は出てこない。それが積もって自分への嫌悪感ばかりが増してくる。目の前にノルマなり果たすべき仕事を提示されて、自分の信じる神様が、これを果たすことはお前の為なのだから必ず実績を残すようにと告げるだろうか。そう思える兄弟がいても不思議ではないが私はそうは思えなかった。ただ追求に耐え忍び生き残ることこそ、神様の為であり救いたいと思った祖父や父母の為であり、そして自分の為なのだと思った。人間は本来、自分の為だと言い聞かせ帰結を自分に置いても力が出る存在ではない。ましてやお前の為だと誰かに言われても、たとえそれが神様であったとしても、自分の事しか眼中に無い人間のように貶められて扱われているようで力は入らない。私達は為に生きることで力を発し、為に生きることで喜びを得る存在なのだ。結果として自分の為だったのだと思えたとしても、帰結は為に生きようとする対象にある。家族の為と思えれば妻や子供の喜ぶ顔が浮かび感謝の声が響いてこそ力となる。御父母様の為にと思えれば私に微笑まれ勇気付ける御父母様をありありと心に捉えてこそ力となる。食べることであれ寝ることであれ、生活の些細なことであっても、全ての行動のひとつひとつの動機付けを愛する対象の為にと明確に置くことで、幾らでも湧いて出る力の源泉を掘り当てたことになる。