2010年2月18日木曜日

幻想を超えて

感覚で受け取るものは全て幻想だ。私の前に広がる世界の一つ一つの構成物を、視覚で受け取ったありのままを現実として捉えているけれど、構成物の背後の霊的実体を見通す力を備えることが必要だ。構成物の輪郭と表面に捕らわれている以上、霊的実体を視ずに唯物観念という幻想の中で生きているに過ぎない。私の前に広がる感覚世界はその背後にある霊の世界がその本質であることを忘れてはならない。この世界に働きかけながら、物を物として受け取るのであれば、人間としての関わり方とは言えないだろう。物を感覚を通して受け取る過程で、内的霊的なものを受け取るのでなければこの世界はあまりにも味気ない。色彩溢れる外界を通して、私の中でその色達が歌い踊り、語りかける。光を色彩として反射し、その表面様相の硬さや柔らかさを差し出しながら、それらを形作る霊達の声を聞く。外界から感覚で受け取るものが幻想であるように、内界に渦巻く感情様相も幻想だ。感情の趣くままに踊らされるなら、感情の背後に蠢く霊の本質を見届けることは無い。感覚世界というベールが外界にかけられているように、感情世界というベールが内界にかけられている。外に向いてベールを超えた先にあるものと、内に向いてベールを超えた先にあるものとは、同じ霊の本質を差し出している。感覚世界を突き抜けて外界の本質を求めてきた歴史の流れと、精神世界を突き抜けて内界の本質を求めてきた歴史の流れの二つがある。天宙統一は歴史の流れの統一でもある。私をして外界の本質と内界の本質が一つとなる。歴史の真の結実体とはそう言うことだ。カインの流れとアベルの流れが私の中で一つになる。一つになって、新たな私という霊の本質が花開く。

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