2010年2月11日木曜日
前に進むという意志
不安に思うこの一瞬の信仰の揺らぎ、その隙間にサタンは侵入してくる。弱音を吐くことは隙を見せることになる。確かに不安材料は山ほどある。不安の山を見上げながら手をこまねいているうちに貴い時間は過ぎ去ってゆく。だから前進するしかない。一歩でも半歩でも歩みを進めるしかない。立ち止まってみる夢は夢とは言わないだろう。現実から逃避せずに、現実を見据えながら歩みを進める過程で描くものが輪郭をもった夢であって、立ち止まってみる夢は逃避幻想でしかない。この世では酒でも飲んで現実から逃れようとするけれど、酒も飲まずに現実から逃れようとしている。立ち止まったままでどれ程の年数が経ったろうか。信仰と認識していたものが実は逃げであったり、愛と認識していたものが妥協であったり、慕い侍ってきたと自負していたものが実は甘えであったりと、立ち止まった状態では摂理に歩調を合わせることも、御父様に後れを取らず付いていくことも本当は出来ないのだ。摂理は加速度的に進められ、気を許しているうちに御父様は手の届かない遥か彼方を歩んでおられる。視覚から失いかねない危機感を今持たなければ、永遠に追いつくことはないかも知れない。時の流れに身を任せることが前進しているとはいえないのだ。自分が立ち止まったままで摂理の状況を把握することは出来ないだろうし、み言の意味も力も受け取ることは出来ない。立ち止まったままの者こそ、やたらに自分なりの理解をしたがるものだ。知らぬうちに霊的にあらぬ方向へ向いてしまい、み言を曲解したまま御父様を見失う。目前にある超えるべき山から目を離さずに、果敢に一歩一歩踏みしめて山頂を目指していく。立ち止まれば不安感情で足は動かなくなるだろう。動いていればこそ、前進すればこそ道は開ける。
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