2010年2月28日日曜日

今日の想い 147

将来への生活安定や心の平安のみを心配し、魂の意志としての活動が自己擁護に終始するなら、真の父母から預かったものを蔑ろにすることになる。真の父母から預かったものを隅に追い遣り無視しながら、それでも生き続けることに何の意味を見出し、一体何の未練を覚えているのだろうか。自己擁護を叫び続ける私の魂がそれ程に可愛く愛おしいのなら、真の父母にその血筋を持つ、心の片隅に追い遣れた真の自我は、アベルとして認められるどころか存在としても認められず、私の中に居所はない。真の父母を外には見ることができたとしても、私の中に真の父母を見ることは無い。私の中に見ることができないものを外に見たとしても、それは幻想でしかない。実体である御父母様にどれ程敬意を表し、何千万遍啓拝を捧げたとしても、私の中に御父母様が居られるのでなければ御父母様と私との関係性は、肉体を脱いだ後に残りうるものとはならないだろう。良心の叫びを私の中から聞き届けるように、御父母様の叫びを私の中に聞き届ける者とならないのであれば、真の父母にまみえた意味は見出せないし、真の父母と共にある実感はない。意味が見出せないまま、惰性で御父母様と呼ばわり続け、御父母様に慕い侍っているつもりの世界から抜け出せないままでは、永遠に私の中に御国は完成されない。何らかの思わぬ力が魂に作用することで、心の隅に追い遣られていた存在に対して光が当てられる。苦難を掻い潜る毎に、私の中の真の父母が存在感を現す。様々な訓練試練を乗り越えて、私の中の真の父母の存在が魂全域に及ぶことが、この三年間に準備することだ。2013年を超えて、魂への大艱難が襲来する。準備されていない魂に取っては大艱難であっても、準備された魂に取っては途方も無い祝福だ。

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