2010年2月15日月曜日

自分存在の復帰路程

私達が御父母様を戴いて、慕い侍る生活をどれほど誇らしく思っているだろうか。み言に触れ御父様を明かされて、幼い次元ではあったとしても感動し、周囲の誰にでも伝えたくて仕方が無かった当時の熱い想いは何処に消えたのだろう。何の疑いも覚えずあまりにも素直に受け取り、覚えた私の感動と同じ感動を誰しもが覚えるものだと当然のように思っていた。路傍に立って道行く人々に声をかけながら、多くの無関心な反応を不思議に思い、時に反感さえも態度に表し罵る者もいて呆気に取られたこともある。若くしてみ言に触れることができて良かったねと当時の兄弟誰もがそう言ってくれたけれど、堕落や罪の行動体験も無いままで堕落や罪の意味を知ることが、本当にみ言を理解したことになるのかどうか、甚だ疑問だった。人生に対する疑問を問いかけられて応えるほどの人生経験がある訳でもなく、その内アンケートに記入してもらうだけでそれ以上深入りすることも躊躇するようになり、伝道ではなく只のアンケート屋に落ちてしまった。教会生活の中でみ旨に邁進し、どんどん復活していく同期で復帰された兄弟の後姿だけを目にしながら、内的霊的暗闇の中にどんどん落ち込んでいく自分がいた。御父様の存在感もみ言への理解も、勿論感動や誇らしい思いも、堕ちていく暗闇の中に消えていく。み言に触れ御父様を明かされた最初の時の興奮がすっかり冷め、暗闇のどん底に落された時点が信仰路程の本当の出発点だったと、今振り返れば言うことができる。どういう訳か祝福願望だけは強く残っていたけれど、毎日のように繰り返される外的活動に、人に接する事への恐怖ばかりが強まってみ旨への嫌気感が大きくなっていった。教会生活を為しながらも、神様が見えない内的暗闇の中でもがき、手探りをしながら歩んだ期間がある。み言理解の一つ一つを吟味しながらも、時間をかけて少しずつ御父様を御父様といえる自分を取り戻し、成約聖徒としての誇りを取り戻し、み旨に向かう意志を取り戻し、与えられただけの借り物としての神様と御父母様に対する対象存在ではなく、自分で掴み取った、神様と御父母様に対する本物の対象存在となる為の私への計らいの役事が、その期間の背後に隠されていた。復帰された当初の、一方的に感じさせられたみ言に対する感動や選ばれた者としての誇りを、今は自らが勝ち取った自らの内から湧き出るものとして、実感として手応えのある感動と誇りを覚え差し出している。

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