2010年2月8日月曜日
主体、対象的関係
私という自我が存在する為には、主体、対象的関係を自分との関係に於いて見出さざるを得ない。悟性で認識しようとするなら、主体、対象的関係の哲学こそ我々がみ言理解、教材理解の為に必要な、存在に関する御父様の中心的認識だ。そして主体、対象的関係を築く為の要素が真の愛に違いない。対象が主体を見出し、真の愛で一つとなり新たな対象存在となる。その対象存在が新たな主体を見出し、真の愛で一つとなり又新たな対象存在となる。対象の立場で見る理想郷とは、神様を中心に放射状に全てのそういった対象が繋がる世界を言う。この堕落世界は個人にしろ国にしろ、自己中心という自己主体幻想病に犯されている。自分や己が国が対象存在であり主体を見出して一つにならないと存在基盤も失うということに気付いていない。自分が主体であるという幻想を抱いたまま生きている。肉体は生きて前進しているように錯覚しても心魂は彷徨っている。肉体を失った者が幻想から目が覚めると、主体を見出せない対象存在は迷いの果てに消えてなくなる恐怖を味わう。彷徨う人間魂の数々を周りに見ながらも、私と言う心魂存在は真の主体を見出して存在し生きている。その奇跡とも言える己が立場をはっきりと認識し、存在基盤を得た者はそれだけの使命があることも認識しないといけない。真の主体の前に完全対象となるべく絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準と一つとなる。その基準でこそ家庭の中での主体の位置に立ち、氏族の中での主体の位置に立つことができる。主体を見出せずに彷徨う家庭であるなら、氏族であるなら、形骸化して存在基盤を失った墓場でしかない。生活の中に没頭し、肉心的幻想状態でありながら、私や教会との距離を置こうとする親族の表面的訴えに耳を傾けるべきではないだろう。彼らの心魂は彷徨い、その内に消え失せようとしている事実をしっかりと受け止めて、彼らを救う義務が私にはあるはずだ。
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