2010年3月30日火曜日

宇宙を考える

多くの者は、地球という生命体を限りなく広い宇宙に無数に点在する星の中の一つに過ぎないと認識している。宇宙を説明しようとする時に、地上の視覚的感覚的観念を持ってして測ろうとし、認識しようとするけれど、地上的に通じるものが宇宙にも通じるはずだという思いこみを先ず取り去らなければならない。太陽系を描き、銀河系を描き、様々な星雲を周りに描いていったとしても、それは間違いとは言えないが、地上的に捉えると、と言う一言を付け加えねばならない。地上的に捉えればそう描けるわけであって、宇宙は地上的なものを越えている。要するに我々が認識している宇宙とは、宇宙実体の一つの側面の断片でしかない。しかし原理という新しい真理に照らし出せば、地球は宇宙の全てを投入されて創造されてきたという事実が浮かんでくる。地球生命体の頂点に立つ人間が神様の子女として創造されたのであれば、何処か他の宇宙に地球生命体以上の存在があるとは考えられない。もしあるとするなら人間以外の子女的存在を創造されたということであり、地球人間に対する神様の創造過程や復帰路程とは別に、地球人間には全く関与されない形で別の創造が為されていたと言うことになる。神様自身がそれを許すなら、何でもありの宇宙であり全ての原理原則はひっくり返されて創造などはなから有り得ない。宇宙に人間と同じような肉体と魂を備えた別の生命体が存在していると思えるのは、堕落人間の唯物的発想でしかない。真の愛の観念を受け入れ、血統の意味を理解し、神様の心情に繋がる人間となるならそう言う発想は有り得ないはずだ。宇宙と言う存在は地球生命体を創造する為に存在し、地球生命体を存在させる為に存在しているのであり、人間という自我存在を支える為に魂存在がありこの肉体があるように、地球生命体を存在せしめることが宇宙の目的であり使命なのだ。よって宇宙は叡智の存在でもあり、意志の存在でもあり、心情の存在でもある。大気圏の向こうの宇宙に眼を向けながら、燦然と輝く星空や星座の動きなどを視覚的に捉えるだけでなく、視覚で捉える事の向こうに叡智を見ようとし、意志を見ようとし、心情を見ようとしなければ宇宙の本質に問いかけることにはならない。

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