2010年9月30日木曜日

今日の想い 215

誰であっても今の自分にそれなりに満足し、順調に毎日が送れているならば、敢えて内面を掘り下げ、根源的な存在を求めて問いかけざるを得ないような冒険はしない。快い感情の彩りに包まれたまま、その場にしがみ付き、意地でも離れまいとするのが人情だ。今の安住の位置を蹴ってその位置を離れることで、それまでは見えなかった腐臭漂う魂の深みに下っていくなら己の醜さが不快感情として噴出してくる。普段はできるだけ内面が揺さぶられることがないように、外界に対して何重にもバリアをしいて生活している。平穏な位置で敢えて自分から揺さぶりをかけて、苦渋を選択するような人間は一人もいないだろう。しかし内面を掘り下げること無しに、自分の本性を日に曝して直視することなく、内的霊的な感性は養えないし、内的霊的知恵に至ることができないのも確かなはずだ。御父様の心情圏に入っていくということは平穏な位置でなされるものではなく、死を超えるほどの内的痛みを覚え血の流れるのを内面に見るほどに、御父様と同じ事情圏を通過することで心情圏に入っていける。自分で魂の深みに下っていけないなら、誰かに突き落とされてでも自分の魂の本性を味わうしかない。自分の選択意志とは関係なしに、避けられないものとして受ける痛みや苦渋がある。その時、突然の痛みや苦渋ゆえに自分の悲運を嘆いて当然のように思えるけれども、そうやって突き落とされない限り自分の堕落的本性に感情を曝すことはない。御父様に従うものであれば、その道理をよくよくわかっているはずだ。迫害される位置、蔑まされる位置、痛みを受ける位置、嘆きの位置、その位置に立つことの意味を、その位置に立つことの価値を私達は知っている。迫害される位置で実は霊的擁護を受け取る。蔑まされる位置で霊的尊敬を受け取る。痛みを甘受しながら霊的に癒され、嘆いているけれど霊的には喜びに昇華させている。振り返れば全ては愛であったと、御父様のその言葉を私の言葉としても光を放つ言葉となると言う、その証しを立てている。あらゆる悲観的マイナス位置に下りながらその位置を消化することで、実のところ新しい真の愛の世界を創建している。

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