2011年6月4日土曜日

今日の想い 319

私達の教会が、愛に溢れた愛の教会だと自信を持って言えるように、私達皆の愛を投入し培ってきたものが教会の中に見えるだろうか。今の教会には愛は無いと背を向ける兄弟がいるのかも知れないが、さまよいながら愛があるところを嗅ぎ出して群れる者とならずに、愛が薄いと思うなら愛を吸入させて復活させるべきだろう。愛の授受に於いては私が主体になって愛を投入しない限り、教会はいつまでたっても私の教会にはならず、私は寄生した魂であり教会は仮住まいに過ぎない。自分が御父様への信仰を失わない限り教会がどうあろうがさして変わりは無い、と口に出さずとも内心思っている兄弟は意外と多い。でも家庭がひとつになれずに親子関係が偏ったものとなるのと同じように、御父母様がいて兄弟姉妹たちがいて統一家としてなりたつなら、ひとりひとりが御父母様の親の愛を受け御父母様を慕い侍ろうとするように、兄弟姉妹たちとの間にも愛を深めていくべきだ。父子の因縁は築こうとしていても、愛を父子の間に留めて横的に展開できないなら父子の因縁も極めて脆弱なものになるだろう。愛は留まるものではなく、どこまでもどこまでも広がっていくものだろう。愛がどこまでも波及するのを見ながら、縦的な愛が後から後から溢れ出て尽きないものであることを実感する。父母の香りを味わった者は父母の香りを周りに漂わすのは自然の流れだ。蜂が花に寄ってくるように、より深い愛の味わいを味わいたいが為に吸付けられるように教会に人が集まってくるのも自然の流れだろう。お金も持たず個人的なものは最小限に留めながら、それでも父母の香りを味わい漂わせながら苦楽を共にしていた、あの頃の教会には今の教会にない香りが漂っていて人は集まってきた。人々を引き付ける愛らしい雰囲気があり父母の香りが漂っていた。御父母様は人類の御父母様であって教会内に留まる御父母様ではない。個人と家庭のため教会のためだけの御父母様ではない。でも人類に目を向けておられても個人と家庭と教会に投入された愛と精誠は生き続け、流れ続けている。家庭は家庭をまもろうとする者の中に、教会は教会をまもろうとする者の中に、御父様の愛と精誠は生き続け、流れ続けている。立てられた中心を中心に働いておられる。上っ面の言葉だけではなく、中心とひとつになるという意味を本当に理解するなら、教会は復興するはずだ。

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