2011年6月28日火曜日

今日の想い 330

蒸し暑い東京の街を移動しながら、たまらなく熱いせいで理性の働きは弱められる。私にとって東京の街が何と誘惑の多い街かと改めて思い知らされた。別にネオン街に足を踏み入れるのでなくても、男性を刺激するファッションは巷に溢れていて、視覚に飛び込むものに辟易させられながらも何食わぬ顔で足を運ぶ周りの男性が聖人に思えてくるから不思議だ。改めて思わされたことは、日本を出てアメリカで歩むことでどれほど私は霊的に護られてきたかということだ。確かにアメリカでも都市部では肌の露出が激しい女性は多い。露出に関してはアメリカの方が日本より激しいかも知れない。しかし私が西洋の女性を見て、それがどれほど際どい出で立ちであったとしても、私の中に惹かれる衝動は今までのところ起こり得なかった。敢えて他の兄弟に尋ねたことはないので、それが私だけのことなのか或いは日本の兄弟誰もがそうなのかはわからない。しかし私に関する限り、目を背けたい衝動は働いても惹かれる衝動は起こらない。そこに何か私の堕落性に関わる秘密にされている事柄があるようで、見届けられるものなら見届けたい。外的なことを言うなら肌の色が異なることによるものか、体形によるものか、或いは目の色なのか顔面の造りなのか、それともより内的な、民族的性格的なものなのか言葉によるものなのか、私の裸を晒すようで恥ずかしい気持ちはあるけれど、私の過去生の魂たちであり血の中に罪として積み上げられたものが無意識のうちに私の感覚的刺激として対象に求めているものを、日本の土地での私には見てとれる。昔、先輩食口が話してくれた出来事の中に、御父様が来られてみ言葉を聞きに集まった姉妹のひとりが短いスカートを履いていて、御父様の前でそれを注意すると、そういう目で見るあなたの方がおかしいと逆に注意を受けたと話していた。それを宛がえてみると、刺激的なファッションがどうだという問題よりも見る私に問題があるわけで、道行く人々を同じ親を持つ姉妹として対することが出来ずに、それよりも嗜好的、あからさまに言うと情欲嗜好的対象として捉えている私がいるということだ。私の血の中に厳然と流れている犯してきた罪の結果が、穢れた衝動として感情魂の表面に染み出るように表出している。日本に置いておくには余りにも関わってきた罪が多すぎて、堕落性の中に溺れてしまって戴いた祝福の生命が捨て去られる危険故に、私は日本から引き摺り出されたのだろう。アメリカで歩むことの開放感は私の堕落性からの開放感だ。日本に行けば、日本の土地に染み付いている私の因縁的なものから脱することは容易ではないにしても、ここアメリカでは因縁的なものは軽減される。キリスト教の霊的なものがこの土地には生きていて、私にも生きて働く聖霊がいて情欲に振り回されることはない。罪の大きさ、堕落性のしぶとさを思い知らされるにつけ、生きて私に働く神霊の恩恵を深く感謝せざるをえない。

0 件のコメント: