2011年6月10日金曜日

今日の想い 323

今年の夏も昨年に劣らず暑い。用事があってニューヨークの町を歩き回ったが、コンクリートとアスファルトで固められた巨大都市では熱の逃げ場はどこにもない。風も吹かないマンハッタン島という巨大蒸し器の中で、詰め込まれてうごめく人々を着衣のままで蒸し上げる。この暑さにはどんな人種であっても勝つことはできない。白も黄色も黒も赤も、さすがに健脚のニューヨーカーを自負する人々でもこの暑さに足取りは重くなる。ビルとビルの谷間に佇んでいても移動しても、濃い汗が私の体中滲み出てきて、特に冷却が必要な頭の方は汗が滝のごとく滴り落ちる。ひたすら汗を拭うことに懸命で、田舎者の物珍しさからの周りを見回す余裕すらない。息子も仕事の関係でこの町の住人になるけれども、私には好んで雑多なこの町に住むことを選ぶ人の気が知れない。息子も仕事だからという理由以上に、この町に惹かれるものがどうもあるらしい。親としてのいろんな不安が交差して、この町で新たな天的出会いがこの子を待ち受けているとは今の段階では思えなくて、否定形の言葉ばかりが渦巻いていたが、容赦ない照り返しの熱で蒸し上げられるとさすがに思考も停止してしまって、もうどうでもいいという気分になってしまう。気温が上昇して高熱の中で生きるということは、どうも思考人間の悟性的な生き方は変化させられるのかも知れない。感情的といえば悪い意味に捉えるほうが普通かも知れないが、内面がそのまま生活行動として出るなら、善なる感情の持ち主は善人として、悪い感情の持ち主は悪人として現れて、実に単純明快な善の世界、悪の世界に振り分けられるような気がする。確かに今はどんな極悪人であっても心根に持ったものを隠して善人面で善人に紛れて生きることができるが、コントロールしていた悟性が熱で機能しなくなり、感情そのままが表に噴出せばその人の心根は隠そうにも隠せないだろう。そんな天の意図があっての気温上昇かどうかは全く仮定の仮定に過ぎないけれど、2013年を目前にしてこうも毎年猛暑が続くということは、そこに何らかの摂理的意図があって当然だろう。心地よさの状態が続く限り、沈殿している悪の要素を敢えて掻き回そうとは誰もしない。掻き回されなければ総清算は為されない。掻き回されることで見えてくる私の中の不安の本質は、私の中に息子への信頼の欠如があることだ。どんなことがあっても息子を信じると腹をくくれば、それが唯一天の側に息子が立つ為の親としての条件に違いない。些細な行動もほじくれば、それが自分への不信から来ていることぐらい誰でも見抜く。見るべきものを回り終えて、自分への小言のひとつも口に出ない親父のへたばり様を見ながら、息子の目は笑っていた。

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