2011年6月7日火曜日

今日の想い 320

妻をドクターオフィスに連れて行くとき、目を塞ぎたい光景を目にしてしまった。中絶反対のデモンストレーションなのだが、そのやり方が何とも醜く、彼らの良心を疑いかねない。助手席にいる妻が目に止めないように急いで目を伏せるよう彼女に告げたが、視野の隅には写ったかもしれない。右翼の街宣車を思わせるようにバンに大きな二本の星条旗を立て、遠目にはサンドイッチのポスターかと思われるような派手な拡大写真を張り巡らし、数人のドクターの名を写真入で掲げ、このドクターは何人、あのドクターは何人始末したとデカデカと書いてある。妻が通うドクターオフィスの並びに彼らが名指す施設があるのか、道沿いには街宣車で鼓舞されるように人が群れていて、胎児が切り刻まれた拡大写真をそれぞれに掲げて、通る車にアピールしている。街宣車に張り巡らされたサンドイッチのようなポスターも、彼らが掲げているポスターと同じものだった。反対を叫ぶのは彼らの自由であり彼らの良心でもある。私の個人的感情からも信仰からも明らかに彼らと同じ反対の立場だ。でもあのやり方は良心を装った悪魔の姿がはっきりと見て取れ、良心を喰いものにしているようで吐き気さえ覚える。この彼らの行動で、結果的に名指しされた医師の中絶医療を阻止できるのであれば、それは善しとされるのだろうか。あの見るに耐えないおぞましいポスター写真を掲げて、畜生の為せる事だと訴えれば、水子の霊は浮かぶのだろうか。人々の恐怖心に訴えかけて、地獄の恐ろしさを植え付けることで善の行いに向かわせようとするなら、審判の神は立つのかも知れないが、愛の神様が立つことはない。私は恐れを行動の動機としているのか、愛の衝動が動機となっているのかを見極めなければならない。周りを見ながら自らの行動を決めようとするのは多分に恐れを行動動機としている私なのだとはっきりと知る必要がある。デモの彼らの意志に働きかけているのは愛の神様ではない。許しの神様でもない。旧約を遥かに遡る頃の、堕落して良心さえ備えることが出来ない頃の、神の名を借りた地獄の管理者を頭として備えている低次元の集合体だ。その日一日、吐き気と戦いながら、この光景を目にした意味を問い続けた。

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