2011年6月25日土曜日

今日の想い 328

何処を起点として西といい東というか。北といい南というか。御父様は、反対になっているので南と北、東と西が分かれていることに皆さんは気づかないと話されるけれども、普通東西南北は地理上の方角のことをいい何処を起点とするかによる。だから南と北が分かれ、東と西が分かれているという言い方には誰もが首を傾げるだろう。ここには明らかに御父様の東西南北の概念と、地動説を当たり前として起点によって異なる私達の東西南北の概念とは違うことを意味している。では御父様の概念はどうであり、どう理解したらいいのだろうか。東西南北を揺るぎないものとして位置付ける為には、揺るぎない起点を位置付ける必要がある。現代に於いては自然科学的な思考を誰もが信じ、ことごとく自然科学的な認識に支配されているから真の被造世界への認識、それは霊的認識なくしては有り得ないが、それを得るための真の認識に対する問いや衝動が人間の中に見られない。御父様の認識へと辿り着こうとするなら、真の認識に対して問う力や衝動力が要求される。真に対する追求力を私の中に見るのでなければ、理解できないみ言葉はいつまで経っても首を傾げるしかない。先ず私の自然科学的認識を否定してみることだ。物質の究極を分子であり原子であり素粒子だというのを何の疑いも無く信じているけれども、それは地上的な一つの説明の仕方だとしても、そう信じることで分子であり原子である存在から私に働きかけてくるものは無い。自然科学の基礎として学び、当然として疑う余地も無く認識の基底に置かれているものは私に取っては幻影に過ぎない。唯物的幻影に過ぎないから科学と宗教を私の中で既に相容れないものとしている。科学と宗教の統一を原理講論は説いていて、私達は納得したように受け取っているけれど、私の中の譲らない認識として唯物的幻影が居座っている。科学と宗教の統一は私の心と体が統一されなければ有り得ない。私達の原理観は多分に唯物的なものであることを認めなければ、み言葉理解の過程で益々御父様の認識とかけ離れていくことになる。東へ東へと進路を取ってきた人類ではあったが、西ではなく東へと向かうことの意味が確実にあったはずだ。太陽は東から昇り西に沈んでいく。地球は西から東へと回転している。御父様は地球は本来逆に回転すべきであり八の字を描きながら本来の回転、東から西への回転に戻っていくと話される。地球の内的霊的なものとしての東があり西があるから、人間の地球に於ける東と西が意味を持つ。地球の内的霊的なものとしての東が何であり西が何なのか、東と西が反対になっているので分かれていることに気付かないなら、反対になっていなければ分かれていることに気付くのか。御父様が予言的に語られたイーストガーデンでのみ言葉は、平和の主人、血統の主人として八大教本に入っている。一行読んでは疑問が溢れ、また一行、また一行と読み進めるほどに疑問が溢れかえって理解するには至難の業だけれども、問い続け尋ね続けることで御父様の認識に必ず追いつけると信じている。東西南北の認識も読み解くことが出来れば、確実に一つの霊的次元が見通せてくる確信があって、真の認識に対する衝動を押さえ切れないでいる。

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