2011年6月2日木曜日

今日の想い 316

普通の人はこう考える。死ぬ前に死んだ後のことを心配してどうにかなるものではない。死後の世界、霊界があろうが無かろうが、地上で決められた自然環境と決められた肉体様相で暮らすように、あるならあるで決められたままに、無いなら無いで消え失せるまでだ。そのようにわからないことを当然として、わからないから人間なのであってそれがわかるなら人間ではないと思っている。み言葉を聞いた兄弟達は、勿論み言葉を信じて生きているので、霊界はあるという認識に立ってはいるけれど、その認識が現実性を帯びて生活に関わっているかというと首を傾げる。あるという立場には立っているけれど極めて曖昧な認識であって、生活感情自体はさしてこの世の普通の人と変わりない。私達は真の父母様を戴いているけれど、霊的な認識が曖昧なので、この世の宗教指導者に向かう信者の気分と変わりないし、中には私のスターだと言うに留まった兄弟もいる。み旨として足を地に付けた歩みが必要とされるのに、霊的なことばかりを口にしていれば一向に摂理は進まないというような感情が私達の中にあるが、それは霊的なものを誤解している。本当の霊的な認識を備えるなら霊は極めて現実的であり、霊的なものを排除して摂理は進まない。み言葉の理解も御父母様の認識も、霊的に理解するものであり、霊的認識に至らなければ真の父母という言葉のみの抜け殻を響かせているだけだ。この世で解かれるものがあの世でも解かれるとあるように、この世でしっかりと意識の光を照らして認識したものだけがあの世で力となり形を成すのであって、地上で霊の目を開けるように用意しなければ霊界で目を備えることはできない。今の時代圏が極めて祝福されているのは、御父母様の勝利圏に入って塞がれていた霊界がことごとく開放されたことだ。霊的感性を備えることができれば透き通るように霊界事情が見渡せ見えてくる。霊的感性は霊的無知を克服することで備えることが出来る。天使長ルーシェルは堕落の張本人ではあるけれど、別の名を黎明の子、明けの明星と言われるように、ルーシェルほど新しい夜明けを開く光の担い手としての智の力を備えた存在はいない。ルーシェルが神様の前に悔い改めたことの地上の人間に取っての意味は、私達は光の担い手としての智の力を得て霊的無知を克服できると言うことだ。み言葉や御父母様や霊界に関する曖昧な私達の認識も、非常に明快なものになっていく。御父様のみ言葉の骨格である原理を再度学び直し、特に後編には見落としていた多くの事柄が、私の意識の光に黎明の智の力が込められることで見出されるだろう。

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