2011年6月30日木曜日

今日の想い 331

地上界という感覚世界で、私達が死に対して抱いている概念は感覚世界のみの概念であり、感覚を超えた世界、つまり霊界から見た死は誕生を意味する。地上界での死は霊界での誕生であり、感覚世界に身をおいて見たり経験する死と異なり、死をもって霊界に誕生するその超感覚的な死の意味を感覚的に問うことはできない。この世の何一つとして移り行き変わり行く時の流れに逆らえるものはない。一瞬と次の一瞬は既に変わっていて何一つ同じものは無い。移り行き変わり行く時の流れに身を埋めているにも係わらず、昨日見て触れたものが今日も変わらずに見て触れているという感覚世界の幻想の中に生きているから、いつまでたっても死に対する不安と恐れから逃れることはできない。川を見ながら、昔と変わらない川を今日も目にしていると思っているけれど、一瞬として留まらない流れで同じはずは無い。それを変わらないものとして見ているのと同じ様に、外界の存在の輪郭に惑わされて絶えず変わり行く超感覚の部分を見落としている。私という意識が感覚によるものよりは感覚を超えたものへの重要性、現実性をそなえることができれば、感覚という幻想に惑わされずに内的霊的なものを主体にして生きることが出来る。しかしそれが決して楽しいものでも喜ばしいものでもなく、忌まわしくも避けたいものであることも事実だ。様々な霊が入り込み自分の醜さや汚らわしさとして渦巻いているのを見ざるを得ない。内的霊的なものへの意識を曇らされて感覚世界の幻想に生きていれば見ずにすむものを、感覚を超えた意識を備えれば備えるほどサタンや悪霊を現実として私の中にも外にも見なければならない。しかしサタンや悪霊に翻弄されている私こそ実態だ。だからこそ救いが必要であり、祝福が必要であり、み言葉が必要であり、御父様が必要なのだ。そこまでの意識が私に備わってくると、死に対するものの捉え方は随分と変わってくる。死よりは私自身の方がよっぽど恐ろしいと思うだろう。

0 件のコメント: