2011年6月12日日曜日

今日の想い 325

一個人それぞれが外的肉体的に小宇宙であるといえるように、内的霊的に小宇宙でもある。真理に対して人それぞれに理解度の差が出て受け取り方が異なることが、宇宙を限定的なものにしている。地上的な意味での宇宙は、人間が肉体を持っている限りに於いては、何を信じようと真理をどう理解しようと同じ外的宇宙が広がっていると捉えているけれど(そう思っているだけで本当は違う)、内的霊的な居場所である私の世界、私の宇宙は、私の真理に対する理解度、受け取り方に限定される。真理を内的霊的にどう受け取るかが私自身の自由度を決め、活動範囲を決めている。信仰しない自由も信仰の自由だと言って憚らない者は、霊界に於いては身動きすらできないだろう。この世で地上的限定的生(時間であったり場所であったり)を送りながら、外的に限定されることで内的霊的な広がりへ羽ばたく翼を得る。様々な困難、試練に遭遇しながら内的真理への理解を深めていく。信仰者とは本来、生活力が弱く、何か頼れるものに息継ぎを求めようとする者ではなくて、未だ私という暗闇の世界を果敢に開拓していく真理への開拓者だ。聖書を読み進め、御父様のみ言葉を尋ねる時、その言葉の背後にどれ程の圧倒される真理が眠っていることだろうか。ただ言葉面をなぞるだけではなく、私には隠されていた死んでいたような真理が目覚めて、私の中で生き生きと蘇る体験がなければ私は信仰者とは言えないだろう。その期待感でみ言葉を受け取り、それのみならず受け取るみ言葉が今日一日の生活体験の中でまざまざと蘇り働く。そこまでみ言葉にかかわって初めて、み言葉を受肉していると言えるはずだ。そうして私の内的霊的小宇宙は、真理で打ち立てられた現実世界そのものであり、霊的世界があると言われるのだからあるのだろうと言うようなそんな頼りないものとはならない。御父様が教本の中に全てがあると事あるごとに語られるように、私の宇宙を開拓する全てがこのみ言葉の中にある。多くの人はこの内的霊的世界を未だ認めようとせず、み言葉を受け止めた兄弟ですらはっきりと認識していない場合が多い。旧約的意識のままでは、何々しなければならない、何々しなさいという縛りだけでみ言葉や信仰にかかわり、私の意志する意識をもって私という宇宙の開拓の生を送ってはいない。清平に集う兄弟たちの、出会う多くの顔が沈み疲れているのはそのせいだと思う。本来内的霊的に目覚める場が、更なる縛りの場となるなら、どれほど御父様は心痛いことだろう。

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