2011年6月3日金曜日

今日の想い 317

愛を投入するなら、愛は愛の証しとしての花を必ず咲かせる。その確信があるなら、待つことも愛だろう。今すぐにでも投入した愛の見返りを見せてくれと、待てずに言い寄るなら、投入した愛は貶められそれは既に愛とはいえない。待つことが長ければ長いほど、愛はますます愛らしくなる。愛しても愛しても、それでも愛の実りを見いだせなくても、それは私が予想している以上の大輪の愛の花に違いないと、更なる期待感を寄せながら愛を高めて待ち続ける。人は神様を裏切ってきたのだろうか。裏切った立場から神様に向かうなら、確かに神様を裏切ったはずだ。しかし神様は私を見て裏切り者だと言うだろうか。いや口にはされずとも裏切り者だと思っておられるだろうか。堕落した人間を見られて神様は落胆の涙を流されただろうか。涙の流れるまま、愛する者から裏切られた孤独の中に沈まれただろうか。落ちる涙をすくい取りながら、落胆の涙は今までも流さなかったしこれからも流さない。流すはずが無い。愛の相対として更なる期待感を寄せながら愛を高めて待ち続ける。その、子としての人間に対する神様の言い分を神様の叫びとして私の中に届けられる。落胆の涙ではなく愛を高める喜びの涙だ。神様は愛を高めてこられた。裏切りを裏切りと取られず、更なる期待感を寄せられて、神様の愛は結果的に高められた。愛はますます愛らしくなった。私の見る神様の印象は、愛の喜びに涙される神様だ。恨みの涙でもなく悲しみの涙でもない、それを否定されて愛する喜びに涙される神様だ。これらの言葉が空しく響く長い長い時が流れて来たけれども、真の父母が地上に立たれたことで初めてこれらの言葉は息を吹き返し、私の中に流れ込んでくる。時々、どうしてこんな些細なことで涙が流れるのだろうと思うときがある。訳も分からず涙するときがある。そういう時、確かに神様が尋ねて下さっている。私のなかで神様が涙しておられる。愛する喜びに咽んでおられる。

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