2011年6月21日火曜日

今日の想い 326

私達がみ言葉をもって成長し、御父様の願いに応えていれば清平の摂理は必要なかったと話される。ようするに清平の摂理は二次的であって、ある意味遠回り的摂理であると言えるのかも知れない。決して少なくはない献金を差し出しながら先祖を解怨し祝福させる。多くの日本食口は言われるままを信じ、穿った見方をすれば鵜呑みにし、生活費をぎりぎりにまで抑えて清平へ詣でるけれど、ウェスタンの場合状況は幾らか異なってくる。本人が納得しない限り、幾ら御父様の指示と言えども行動には出ない兄弟の方が多いだろう。献金摂理の一環として受け止め、できる範囲で参加すると割り切っている兄弟も中にはいる。七代解怨しようが二百代解怨しようが、何らかの実感として私に働くものを見るのでなければその数値が意味するものはわからない。それをただ信仰が足りないと片付けられるのかというとそう単純ではないだろう。本来必要なかったものが必要とされ、D-DAYまでに果たすという御父様の指示事項としてはっきりと言い渡された今、本気で先祖解怨と先祖祝福の意味をウェスタンにもはっきりと理解でき実感できるものとして証を立てなかったなら、私は信じているから従うし、貴方が信じないなら仕方がないと言い放つ姿勢は全体摂理を慮っての態度ではないだろう。熱心に清平詣でをしているなら、他の腰の重い兄弟達がその恵みに預かりたいと思えるような証を立てるべきだし勧めるべきだ。そうしてあくまで私達は全体勝利を目指すべきだ。私達の多くは個人信仰に埋没していて、他を想い、思い遣り、与えたい愛として投げかけるものを持ち合わせてはいない。同じ食口でありながらも他を寄せ付けない態度は見るに悲しい。天にもっとも近い場所に居ながら、その場所に相応しくない者がいると思われる私になってはいないか、自分にも問いかけた。兄弟の中には、より大きな善を為しているなら小善に気を使う必要はないと本気で思っている者もいる。御父様の願いに応えることは大善であるから、この世の人格的には欠落点があったとしても許されると思っている。更にはみ旨を為すに於いて人間的な道徳であったり人情であったりは妨げとなる、と言うような認識もある。私が為しているのが大善であるか小善であるかは私が判断するものではなく、神様が判断するだろうし周りが判断するものだ。私の中の良心を認識できない者に限って自分の善を測ろうとし、善の行動が喜びだという認識はない。

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