2011年6月23日木曜日

今日の想い 327

祝福されたからといって天国に行けるか。行けない。皆それぞれに於いて天国像があって、祝福を受けることで霊界に行ったときそこに行けるかと言うと、行けない。祝福は条件的なものであって、堕落性を脱ぎ罪の一点の曇りもない私になったとき天国に行ける。条件的なものとして善の行いをし、御父様の願いであるみ旨を歩む。そうすることで自分の身は清められていく。何となくそんな風に信じている。天国に行くと言うことと、信じると言うことが対になっている。しかし信じて義とされる時代を超えて、侍って義とされる侍義の時代を私達は生きている。天国に行きたい地獄には行きたくないと言うことと、侍ると言うこととは対になりえるだろうか。つまり天国への想いを深く持てば持つほど、侍ることの力となりえるだろうか。私達に一般の意味でいう天国など意味はない。一般的天国像への想いは私達の侍る力にはなりえない。大母様が話されるように確かに天国があり、地獄がある。地獄で呻吟する先祖達がいる。しかし天国に行き、地獄に行ったのではなく、肉体を持とうが持つまいがそれぞれの人間という宇宙そのものが天国であり地獄なのだ。私そのものが天国様相の宇宙であり或いは地獄様相の宇宙なのだ。今までも触れてきたように天国は行くところではなく築くものだ。太陽があって太陽の光が隅々まで届けられるように、良心があって良心の光が私と言う宇宙の隅々まで届けられればそれは天国様相の宇宙だ。太陽の光を強くし、良心の光を強くするためには、私の良心は太陽存在である御父様の息子であり娘であると断言でき、父子の因縁を築くことで御父様から相続されたものが私の良心の根源である。だから心情が重要視され、心情と対になるものが侍る力だ。人間それぞれに良心は備わっているけれど、それは神様が内在する良心ではない。やがて神霊を植え付けられる為の条件的限界的良心だ。だから人間それぞれの良心は神霊を植え付けられることをひたすら待っている。しかし祝福を受けた者は御父様の神霊を良心の中に種として戴いている。太陽存在のように光放つ良心として育ててゆき、正午定着の位置で光を届ける良心になる。私達が祝福を受けたことの意味を十二分にわかって、慕い侍りもし誇らしくも思う歩みをしなければ、私の良心は本来の光を放てず燻ぶり続けるままだ。

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